
英雄たちが愛した歴史的スパイクVOL.41「三浦知良選手がスフィーダを履いた日」 編
今シーズンは三浦知良(カズ)選手が再びJ1のピッチへ戻ってこられます。カズ選手は今更説明の必要もない日本が誇るサッカー界の生ける伝説です。使用スパイクについても様々なことが語られていると思いますが、そう言えばあのモデルを使われ始めた時期っていつだっけ?という素朴な疑問が湧いたので、調べてみました。

カズ選手の同世代にとって、カズ選手のスパイクと言えば真っ先に思い出されるのがプーマのスフィーダだと思います。
キングギアが始まった頃、スパイクについて語ったカズ選手の記事を興味津々で読んだ覚えがあります。
巻頭の写真もその記事のもので、W杯初出場を目指して日の丸入りのスフィーダで活躍されていたカズ選手と日本代表を必死に応援していました。
さて、そもそも90年代以降の日本製スパイクについてはあまり知識がない私ですが、スフィーダという名品スパイクは知っていても、そのモデルがいつ頃デビューしたのか?
いつからカズ選手がスフィーダを使い始めたのかは、あまり語られていないような気がします。
そこで、今回はそれについて調べてみました。 Jリーグができる10年ほど前に、カズ選手は高校を中退して、プロ選手を目指してブラジルに渡りました。
ブラジルでプロになりたての頃はアシックスのスパイクを履かれていましたが(図1左)、多分、86年にパルメイラスの一員としてキリンカップで来日された際、プーマ(パラメヒコ)のスパイクにされたようです(図1右)。ちなみにこの大会序盤はアシックスのスパイクを使われていました。
図1 サントスからキリンカップ出場(86年)のためパルメイラスへレンタルされた時のカズ選手。左はブラジルのスタジアムですが、芝というより草むらのようです。
それ以降はブラジルでもパラメヒコやメキシコライトを使われ、90年8月に読売クラブでデビューした頃もパラメヒコでした。
図2 日本リーグ(読売クラブ対三菱、90年12月1日)と日本代表(北京アジア大会、90年9月28日)のカズ選手
また、日本代表にもすぐ召集され、北京アジア大会に出場した際もパラメヒコでした(図2右)。 読売クラブでの最初のシーズンは背番号24番で(図2左)、人気と話題性はすごかったですが、監督との相性がよくなかったのか途中出場や交代が多かったようです。
しかし、91年6月のキリンカップで大活躍し、徐々にクラブ、代表のエースになっていかれます。 日本代表が(開催11回目で)初優勝したキリンカップはユニフォームがアシックスだったためか、黒塗りしたパラメヒコを履かれていました(図3左)。
図3 日本代表戦でのカズ選手。2ゴールをあげたキリンカップのトッテナム戦(91年6月9日)、最後の日韓定期戦(91年7月27日)。背番号は20番。監督が自分に得点を期待して、82年W杯得点王ロッシ選手(イタリア)と同じ背番号にしたと自分で勝手に思っていたと語られていました。
さて、この時期からそれまでパラメヒコを使っていたカズ選手のスパイクに変化が見られました。 まず、91年7月14日に往年のブラジル代表選手(ソクラテス選手、ジュニオール選手、エデル選手など)のチームと静岡出身のスター選手との親善試合がありました。 「ドリームin静岡」という日本平球技場開設記念試合だったそうです。
画像が非常に不鮮明で恐縮ですが、この時のカズ選手(図4上、後列右端)のスパイクはパラメヒコのような白シュータンではなかったようです。 この日がスフィーダデビューだったかもしれませんが、鮮明な画像がなく断言はできません。
図4 「ドリームin静岡」でのカズ選手(後列右端)。図3右の日韓戦のカズ選手のスパイクかもしれないプーマ・スーパーゴールド(左下、サッカーダイジェスト90年6月号中の広告)。サッカーマガジン91年8月号(7月発刊)中にあったスフィーダの広告(右下)。
その後、91年7月27日に行われた(最後の)日韓定期戦では、キリンカップと同じスパイクに見えますが、つま先がベルトマイスターのような2枚革のモデルだったようです(図3右)。 また、この頃にサッカー雑誌の広告中にスフィーダが登場しました(図4右下)。
カズ選手はインタビューでベルトマイスターは足に合わなかったとおっしゃられていますが、この試合のスパイクは一部でまだ販売されていたベルトマイスターか、(私は見たことがない)スーパーゴールドというモデル(図4左下)を試されたのではないかと個人的に推測しています。
図5 91年7月29日から10日間の読売クラブトレーニング時のカズ選手(左)。JSLカップ決勝(91年9月1日)のカズ選手(右)
その後、プロ化前の最後の日本リーグに備えた夏季トレーニングでは再びパラメヒコを使われていましたが(図5左)、9月15日の開幕戦では、スフィーダを履かれています。
おそらく91年の7月から9月頃に、カズ選手は新たに発売された(もしくは専用に開発された)スフィーダのご使用を決められたのだと思います。
ただ、9月1日はJSLカップ決勝があり、その時のスパイクもスフィーダだったかもしれません(図5右)。 その後は、クラブでも代表でも一貫してスフィーダを愛用し続けられました。
図6 最後の日本リーグ開幕戦(91年9月15日)、第5節(91年10月20日)のカズ選手。
リーグ戦としては91-92年のJSL最後のシーズンでカズ選手はスフィーダを使い始め、その頃ですでにシュータンには「Kazu」のサインが刺繍されていたようです(図6右)。
図7 Number275(91年9月20日号)にカズ選手のインタビューが載っていました。この時にKazu刺繍入りスフィーダが写っています。
スフィーダは自分の中では比較的新しいモデルと思っていましたが、デビューから30年近く経っており、充分ビンテージスパイクと言えると思います。 ソールが劣化したという話も聞きますが、パラメヒコと同じソールですから、プーマジャパンさんが修理してくれますので、お持ちの方は劣化してもあきらめずに大事にしてほしいものです。
図8 スフィーダ(左)と巻頭写真のレプリカモデル(右)。アッパーはカンガルー革。レプリカは革やシュータンの素材が本物とは違うようです。
図9 (少し古めの)パラメヒコ。つま先のステッチやかかとの作りがスフィーダと異なります。
図10 ベルトマイスター(西ドイツ製)。つま先が2枚革になっています。アッパーはボックスカーフ革。(入手時に既に)ソールが劣化しています。
図11 スフィーダとパラメヒコのデザインを併せ持つパラビアンカ。革はベルトマイスターと同じカーフ革。
以前プーマジャパンさんへ伺った時に、歴代のカズ選手モデルを並べていただきましたが(図12)、その頃は知識もなく、ただ撮影させていただいただけですが、今考えると神戸時代に再びパラメヒコにした25本スタッドモデルや、取替式のスフィーダがあったようです。ちゃんとソールの写真も撮っておくべきだったと後悔しております。
図12 プーマジャパン所有のカズ選手モデル。手前は神戸時代のパラメヒコ、レセルバの25本スタッドモデルのようです。
最近のカズ選手はさすがにパラメヒコを履かれることはないようですが、久々のJ1のピッチでのプレーを拝見したいものです。 また、オリンピックイヤーですし、巻頭写真のスパイクのように常に日本代表には必勝精神で頑張ってほしいです。
(当時の画像はサッカーマガジン、Numberから引用)
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『神に愛された西独製サッカースパイク』
80年代に数々の伝説を生んだサッカー界のスーパースターを足元から考察した論考。
◆小西博昭オフィシャルブログhttps://maradonaboots.com/
さて、そもそも90年代以降の日本製スパイクについてはあまり知識がない私ですが、スフィーダという名品スパイクは知っていても、そのモデルがいつ頃デビューしたのか?
いつからカズ選手がスフィーダを使い始めたのかは、あまり語られていないような気がします。
そこで、今回はそれについて調べてみました。 Jリーグができる10年ほど前に、カズ選手は高校を中退して、プロ選手を目指してブラジルに渡りました。
ブラジルでプロになりたての頃はアシックスのスパイクを履かれていましたが(図1左)、多分、86年にパルメイラスの一員としてキリンカップで来日された際、プーマ(パラメヒコ)のスパイクにされたようです(図1右)。ちなみにこの大会序盤はアシックスのスパイクを使われていました。

図1 サントスからキリンカップ出場(86年)のためパルメイラスへレンタルされた時のカズ選手。左はブラジルのスタジアムですが、芝というより草むらのようです。
それ以降はブラジルでもパラメヒコやメキシコライトを使われ、90年8月に読売クラブでデビューした頃もパラメヒコでした。

また、日本代表にもすぐ召集され、北京アジア大会に出場した際もパラメヒコでした(図2右)。 読売クラブでの最初のシーズンは背番号24番で(図2左)、人気と話題性はすごかったですが、監督との相性がよくなかったのか途中出場や交代が多かったようです。
しかし、91年6月のキリンカップで大活躍し、徐々にクラブ、代表のエースになっていかれます。 日本代表が(開催11回目で)初優勝したキリンカップはユニフォームがアシックスだったためか、黒塗りしたパラメヒコを履かれていました(図3左)。

図3 日本代表戦でのカズ選手。2ゴールをあげたキリンカップのトッテナム戦(91年6月9日)、最後の日韓定期戦(91年7月27日)。背番号は20番。監督が自分に得点を期待して、82年W杯得点王ロッシ選手(イタリア)と同じ背番号にしたと自分で勝手に思っていたと語られていました。
さて、この時期からそれまでパラメヒコを使っていたカズ選手のスパイクに変化が見られました。 まず、91年7月14日に往年のブラジル代表選手(ソクラテス選手、ジュニオール選手、エデル選手など)のチームと静岡出身のスター選手との親善試合がありました。 「ドリームin静岡」という日本平球技場開設記念試合だったそうです。
画像が非常に不鮮明で恐縮ですが、この時のカズ選手(図4上、後列右端)のスパイクはパラメヒコのような白シュータンではなかったようです。 この日がスフィーダデビューだったかもしれませんが、鮮明な画像がなく断言はできません。

図4 「ドリームin静岡」でのカズ選手(後列右端)。図3右の日韓戦のカズ選手のスパイクかもしれないプーマ・スーパーゴールド(左下、サッカーダイジェスト90年6月号中の広告)。サッカーマガジン91年8月号(7月発刊)中にあったスフィーダの広告(右下)。
その後、91年7月27日に行われた(最後の)日韓定期戦では、キリンカップと同じスパイクに見えますが、つま先がベルトマイスターのような2枚革のモデルだったようです(図3右)。 また、この頃にサッカー雑誌の広告中にスフィーダが登場しました(図4右下)。
カズ選手はインタビューでベルトマイスターは足に合わなかったとおっしゃられていますが、この試合のスパイクは一部でまだ販売されていたベルトマイスターか、(私は見たことがない)スーパーゴールドというモデル(図4左下)を試されたのではないかと個人的に推測しています。

図5 91年7月29日から10日間の読売クラブトレーニング時のカズ選手(左)。JSLカップ決勝(91年9月1日)のカズ選手(右)
その後、プロ化前の最後の日本リーグに備えた夏季トレーニングでは再びパラメヒコを使われていましたが(図5左)、9月15日の開幕戦では、スフィーダを履かれています。
おそらく91年の7月から9月頃に、カズ選手は新たに発売された(もしくは専用に開発された)スフィーダのご使用を決められたのだと思います。
ただ、9月1日はJSLカップ決勝があり、その時のスパイクもスフィーダだったかもしれません(図5右)。 その後は、クラブでも代表でも一貫してスフィーダを愛用し続けられました。

リーグ戦としては91-92年のJSL最後のシーズンでカズ選手はスフィーダを使い始め、その頃ですでにシュータンには「Kazu」のサインが刺繍されていたようです(図6右)。

図7 Number275(91年9月20日号)にカズ選手のインタビューが載っていました。この時にKazu刺繍入りスフィーダが写っています。
スフィーダは自分の中では比較的新しいモデルと思っていましたが、デビューから30年近く経っており、充分ビンテージスパイクと言えると思います。 ソールが劣化したという話も聞きますが、パラメヒコと同じソールですから、プーマジャパンさんが修理してくれますので、お持ちの方は劣化してもあきらめずに大事にしてほしいものです。

図8 スフィーダ(左)と巻頭写真のレプリカモデル(右)。アッパーはカンガルー革。レプリカは革やシュータンの素材が本物とは違うようです。



以前プーマジャパンさんへ伺った時に、歴代のカズ選手モデルを並べていただきましたが(図12)、その頃は知識もなく、ただ撮影させていただいただけですが、今考えると神戸時代に再びパラメヒコにした25本スタッドモデルや、取替式のスフィーダがあったようです。ちゃんとソールの写真も撮っておくべきだったと後悔しております。

最近のカズ選手はさすがにパラメヒコを履かれることはないようですが、久々のJ1のピッチでのプレーを拝見したいものです。 また、オリンピックイヤーですし、巻頭写真のスパイクのように常に日本代表には必勝精神で頑張ってほしいです。
(当時の画像はサッカーマガジン、Numberから引用)
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『神に愛された西独製サッカースパイク』
80年代に数々の伝説を生んだサッカー界のスーパースターを足元から考察した論考。
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