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英雄たちが愛した歴史的スパイクVOL.61 「80年代読売・日産2強時代のスパイク編(その1)」

先日行われたヨコハマ・フットボール映画祭2021のイベントで、サッカーマイナー時代の80年代に日本サッカー界を盛り上げていた読売クラブと日産のレジェンドによるトークショーが開催されました。今回は当時の活躍選手と使用スパイクについての内容をお届けします。

Icon 29634314 1815368455432881 1085668874 o 小西博昭 | 2021/10/29
ヨコハマ・フットボール映画祭2021のポスターは、ディエゴ様ファンにとってはおなじみの82年W杯開幕戦でのシーンがモチーフになったものでした。
こちらでも書きましたが、これはディエゴ様が数人のDFに向かって突進しているわけではありません(図1)。 

Thumb efbc92(図1)映画祭ポスターのもととなった(と思われる)、82年W杯アルゼンチン対ベルギー戦(左)のシーン。パサレラ選手の強烈なFKを警戒し、ベルギーDFは6枚の壁を作りましたが、アルディレス選手が裏をかいて、壁の右にいたディエゴ様にパスしました(右上)。虚を突かれたベルギーの壁がくずれ、DF陣は一斉にパスされたディエゴ様の方を向いています(右下)。  

さて、映画祭ではディエゴ様の映画を含めた興味深い数々のフットボール関連の作品が上映され、貴重なディエゴ様グッズの展示もあったようです。
ただ、個人的にとても興味をそそられたイベントが図2です。
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(図2
)現在67歳のマリーニョさん、63歳の川勝さん、そして86年W杯で「マラドーーナーーーー!」の実況をされた山本さん(マリーニョさんと同い年)による、我々世代には夢のトークショー。
 

(当日のトークショー詳細については後日キングギアで公開予定)  

 Jリーグ開幕カードにもなった日産対読売クラブは、当時の日本代表選手を多数擁し、昭和後期の「サッカー厳冬期」における日本サッカー界で、数少ない花形カードでした。
また、この2チームの試合は2大スパイクメーカー「アディダス(日産)対プーマ(読売)」の対戦でもありました。
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(図3)トークショーでも話題になった85年JSLカップ決勝。数ある対戦でなぜこの試合が取り上げられたのかは不明ですが、珍しく愛知県豊橋市で開催されました。写真は読売のエース・ジョージ与那城選手と地元愛知出身の境田選手のマッチアップ。後方はマリーニョさん。まさにアディダス対プーマ。  

当時珍しく東海大学リーグの愛知学院大学からスター軍団の日産に加入された境田選手に注目していたので、個人的には豊田(トヨタ)市出身にもかかわらず日産を応援していた記憶があります。 ただ、ディエゴ様ファンだったので、スパイクはプーマが好きでした。  

さて、日産のイメージが強いマリーニョさんですが、私がサッカーを始めたころはフジタでのすさまじいご活躍が印象的でした。
マリーニョさんは1954年ブラジルに生まれ、1975年に札幌大学へ留学、1976年にJSLのフジタ工業に入社されました。70年代後半はカルバリオ選手とのブラジルコンビで大活躍し、フジタにいくつものタイトルをもたらしました。留学経験で当時から日本語が堪能で、とてもフレンドリーな選手だった記憶があります。
   Thumb efbc95(図4)1980年元旦天皇杯決勝(フジタ対三菱)でのマリーニョさん(28番)とカルバリオ選手(27番)。 

一方、1958年生まれの川勝さんは、70年代後半は法政大学のエースプレーヤーで、大学時代にすでに日本代表(その当時は全日本と呼ばれていた)に選ばれていました(図5)。
奇しくもイベント司会の山本さんは現在法政大学の先生をされています。
  Thumb efbc96(図5)1979年モスクワ五輪予選前の代表合宿での川勝さん(右)、中央は川勝さんと同い年の現名蹴会会長の金田さん。左は前日本代表監督の西野さん。
  
  Thumb efbc97図6 モスクワ五輪予選直前(1980年)の全日本メンバーの川勝さん(中列右端)。 川勝さんの隣は後に読売クラブで一緒に活躍した小見さん。 後の好敵手となる日産の木村選手、金田選手、三菱の田口選手、落合選手が前列におられます。  

時期は近いですが、年度が変わり、図5の時はアシックス、図6の時はプーマが代表のサプライヤーだったため、当時の代表選手たちはサプライヤーのメーカーから支給されるスパイクを着用していました。
また、JSLのチームも契約しているユニフォームのメーカーのスパイクを履いている選手がほとんどでした。 ちなみに 図5の川勝さんはプーマのスパイクを履いているので、こだわりがあったのかもしれません。  

ブラジル人のマリーニョさんも日本サッカーリーグのスター選手として、時には日の丸をつけて世界のスター選手と対戦されました。
  
  Thumb efbc98図7  79年のゼロックス杯でベッケンバウアー選手率いるNYコスモスとの対戦時のJSL選抜チームのマリーニョさん(前列右から二人目)。

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8 84年の釜本選手引退試合ではペレ選手(シュートしているオベラーツ選手の後ろ)とも対戦されました。この試合はパラメヒコデビュー前の、プーマスパイクの見本市のような親善試合でした。
左端の長澤選手(娘さんは女優のまさみさん)は
WMメヒコらしきモデル、加藤久選手とペレ選手はプリメイロ、マリーニョさんはリオを履いていたようです。 オベラーツ選手も当時はなかったアディパンソールのコパムンディアルタイプのモデルを履いていました。とても長いシュータンの折り返しが特徴的でした。  

川勝さんは法大卒業後、JSL2部の東芝(81~82年)に入団されましたが、その後読売クラブへ移籍され、83年シーズンの読売クラブJSL1部初優勝に貢献されました(図9)。
 
         Thumb efbc91efbc90(図9)読売JSL初優勝時、サッカーマガジンの表紙を飾った加藤久選手、川勝さん、小見選手。担がれているのは千葉監督代行(こちらもぜひご覧ください)。 川勝さんは学生時代からサッカー雑誌登場回数がとても多いスター選手で、サッカーの話題以外にも右のような変わったコーナーにも登場されていました。  

さて、お二方のスパイクについてですが、80年代の日本サッカー界において、トップレベルの選手が履く2大メーカーのスパイクは大きな変化が見られました。
アディダス使用選手の場合、84年ごろからコパムンディアルを、プーマ使用選手の場合は86年ごろからはパラメヒコを使用し、この2社の他のモデルを履く選手は極めて珍しかったと思います。
そのため、コパムン、パラメヒコデビュー前の両社の定番スパイクは今となっては知る人も少ないのが現状です。
お二人が活躍された時期は、ちょうどその過渡期でした。
   Thumb efbc91efbc91(図10)70年代後半から80年代前半にマリーニョさんや川勝さんが履いたと思われるスパイクの一例。基本的に日本でプレーする選手は固定式を好み、左はアシックス(オニツカ)タイガーの「インジェクターXL」。これよりもグレードが高いモデルもありましたが、黄色ラインのカーフ革モデルは長年、名選手に愛用されました。
右はプーマの「ベルトマイスター」。同じくカーフ革モデルで、パラメヒコが誕生するまで、多くのトップ選手に愛用された西ドイツ製モデル。70年代はシュータンが黒一色でした。
    Thumb efbc91efbc92(図11)コパムンディアルデビュー前に、代表クラスの選手が使うアディダスの固定式の定番はワールドカップウィナー(左)か、スーパーカップ(釜本さんお気に入り)で、取替え式はアディスーパーソール(通称ガイコツソール)のワールドカップ(右)でした。  

語り始めると少々長くなるので、日産、読売2強時代になった後のことについては次回にさせていただきます。