
英雄たちが愛した歴史的スパイクVOL.6「MADE IN WEST GERMANY」と「DESIGN PUMA WEST GERMANY」の違い・前編
このコラムをご覧の皆さんの中には、プーマの場合、なぜパラメヒコ(もしくはメキシコライト)に似たスパイクの話を何度も続けているのかという疑問を持たれている方もいらっしゃるようです。この際、「パラメヒコより前に西ドイツ製モデルありき」という事実を再認識していただきたく、「西ドイツ製」と「西ドイツのプーマ社によるデザイン」の違い(+パラメヒコ誕生の経緯)について2回に渡ってご説明させていただきます。前編はパラメヒコが誕生する少し前の日本サッカー界とプーマスパイクについてです。

(スパイクブログ始めました。https://maradonaboots.com/)サッカーを始められた時点で名品パラメヒコが既に存在し、それが憧れのスパイクであった世代の方々には、なぜ私が西ドイツ製のプーマスパイクについて、今さらわざわざ事細かく説明しているのか疑問に思われている方がおられるようです。
今回は改めてパラメヒコが誕生した頃のお話をさせていただきます。 図1は82年頃(パラメヒコデビューの3年前ぐらい)のプーマの代表的スパイクです。
ベルトマイスターは以前も少しご紹介した西ドイツ製固定式モデルで、一般プレーヤーにとっては憧れの超高級品でした。
その頃、私のような若者でも何とか手の届きそうな価格帯(1万円前後)として下の2種類などがありました。
モデル番号の前の「S」は多分国産を表します。 細かなことはさておいて、上と下(高級品とそれ以外)の見た目の違いはシュータンとソール(取替え式の場合)の色でした。
要は、「白シュータンは西ドイツ製(高級品)で、そうでないのは黒シュータンであること」と、取替え式の場合、黒・黄色ソールが西ドイツ製、黒・白色は廉価版(悪く言えば安物)という認識でした。
図1 80年代初期のプーマスパイク。上と下のモデルは倍ぐらい価格が違います。白シュータンへの憧れが芽生えます。
82年W杯の神や、当時の読売クラブ、三菱、ヤマハの日本代表クラスの選手も白シュータンのプーマを履いており、その頃サッカーに熱中し始めた私にとって白シュータンは憧れのスパイクになりました。当然ですが、パラメヒコはまだ作られていなかったので、誰も履いていませんでした。
図2 パラメヒコが生まれる1年数か月前の写真です。当時16年ぶりのオリンピック出場を目指す日本代表(全日本)のサプライヤーがプーマでした。
予選本番前の強化試合でソクラテス選手率いるコリンチャンスに勝利し、予選突破の期待が高まりました。選手は皆さん西ドイツ製モデルを履いています。基本的に白シュータンですが、7番の都並選手は以前ご紹介したトレロかもしれません。
そんな一般プレーヤーの心理を激しくくすぐるモデルが、83年頃にいくつも登場しました(図3)。
価格は手ごろで、しかも西ドイツ製そっくりシュータンのプーマスパイクは、私のような「なんちゃってマラドーナ」を目指す若者にはとても魅力的でした。
しかし、価格を抑えるために、関税の高い西ドイツ製ではなく国産品でした(もちろん革の種類等も異なります)。
プーマもウソは書けないので、シュータンには「MADE IN WEST GERMANY」ではなく、「DESIGN PUMA WEST GERMANY」と記されていました(近くで見ないと違いはわかりません)。
今でこそメイドインジャパンはブランドですが、西ドイツ製シンドロームだった私には、その後も本物の西ドイツ製スパイクへの憧れがさらに強まるばかりでした。
一方、この時点ぐらいからサッカースパイクを購入され始めた方は、プーマのスパイクは白シュータンが当たり前と思われていたでしょう。
また、「MADE IN WEST GERMANY」と「DESIGN PUMA WEST GERMANY」の差など全く感じずに過ごされてきたかもしれませんが、図1の価格差や、図3のスパイクが登場した経緯を知っている我々世代にはとてつもない違いがあるのです。
図3 白シュータンが1万円前後で買える!遠くから見たら高級品!大変魅力的でした。日本製(MADE IN JAPAN)の表示はシュータンではなく、サイズシールに小さく記されていました。
さて、この頃は他社も次々と新作スパイクを発表していましたが、プーマはさらに斬新な日本製モデルも発売しました。
それが図4のプリメイロ(上)です。当時のサッカースパイクにしては珍しいカラーリングで、とてもユニークに感じましたが、いま見ると白い部分のデザインはパラメヒコと同じです(左下)。
その後、白いカラーは流行りませんでしたが、革の裁断パターンはパラメヒコに受け継がれています。デビュー当初はつま先二枚革で、その後、(コパムンのような)つま先ステッチ入りのプリメイログランデが登場し(右上)、おそらくこれらの技術を盛り込み、日本人の足型に合わせて誕生したのがパラメヒコではないかと想像しています。
以前、プリメイロ柄のパラメヒコが販売されていたようで(右下)、元ジュビロの服部選手が履いていたと思います。

図4 84年頃発売のプリメイロシリーズ(上)。取替え式はデルムンドという名称でした。下はパラメヒコシリーズ。
パラメヒコのかかとの部分が白いのはプリメイロの名残かもしれません。この部分は遠くからパラメヒコを見分けるために後々とても役に立ちました。多分、見分けようとしたのは私ぐらいだったかもしれませんが・・・。
残念ながらプーマ製品を身にまとって戦った日本代表は84年4月のロス五輪予選で惨敗してしまい、その後登場した和製プリメイロは、その嫌なイメージを払拭するためのプーマの肝入りモデルだったと思われます。
プリメイロの発表当時、84年夏の釜本選手引退試合に特別参加したペレ選手や、対戦相手の日本リーグ選抜の選手らが使用していました。
また、カズ選手もブラジル時代に履いていました(図5)。トヨタカップで来日した、不思議とプーマのスパイクは黒シュータンを好んだアルゼンチン代表のブルチャガ選手も履いていました(図6)。

図5 左2枚は84年夏の釜本選手引退試合。白ユニフォームは加藤久選手。ペレ選手(中央)。ブラジル時代のカズ選手(右)。プリメイロを履いています。ラインもこの時代には珍しい青や赤があってカラフルでした。 釜本選手のスパイクは今や幻の名品アディダス・スーパーカップです。

図6 85年1月のトヨタカップで来日したインディペンディエンテのブルチャガ選手。練習では黒シュータンのプーマスパイク(決して安いモデルではないはず)でしたが(左)、本番はプリメイロを履いていました(中央)。
ブルチャガ選手のスパイクは、86年W杯は黒シュータンのプーマ、その後アディダスも履き、90年W杯はディアドラでした。(右)84年9月末の日韓定期戦で勝利した時の加藤久選手。
プーマの新製品は名選手たちも使用し、一定の評価は得られたようでした。
しかし、日本代表のサプライヤーは84年秋の日韓定期戦からアシックスへと変わり、12回目の開催にして初めて、敵地ソウルで勝利しました(図6右、この時点で3勝7敗2分)。
この勝利でW杯予選に向け大きな弾みがついた日本代表は、苦戦しながらも85年10月末の最終予選まで勝ち進みました。
誰もがご存じの伝説の日韓対決で名品パラメヒコはデビューしますが、次回はその当時のギア伝説を私なりにご紹介します。 (写真は「BOA SORTE KAZU」三浦知良著、サッカーマガジン、サッカーダイジェスト、イレブン、Numberなどから引用)
著者 小西博昭の作品はバナーをクリック!

『神に愛された西独製サッカースパイク』
80年代に数々の伝説を生んだサッカー界のスーパースターを足元から考察した論考。
今回は改めてパラメヒコが誕生した頃のお話をさせていただきます。 図1は82年頃(パラメヒコデビューの3年前ぐらい)のプーマの代表的スパイクです。
ベルトマイスターは以前も少しご紹介した西ドイツ製固定式モデルで、一般プレーヤーにとっては憧れの超高級品でした。
その頃、私のような若者でも何とか手の届きそうな価格帯(1万円前後)として下の2種類などがありました。
モデル番号の前の「S」は多分国産を表します。 細かなことはさておいて、上と下(高級品とそれ以外)の見た目の違いはシュータンとソール(取替え式の場合)の色でした。
要は、「白シュータンは西ドイツ製(高級品)で、そうでないのは黒シュータンであること」と、取替え式の場合、黒・黄色ソールが西ドイツ製、黒・白色は廉価版(悪く言えば安物)という認識でした。

図1 80年代初期のプーマスパイク。上と下のモデルは倍ぐらい価格が違います。白シュータンへの憧れが芽生えます。
82年W杯の神や、当時の読売クラブ、三菱、ヤマハの日本代表クラスの選手も白シュータンのプーマを履いており、その頃サッカーに熱中し始めた私にとって白シュータンは憧れのスパイクになりました。当然ですが、パラメヒコはまだ作られていなかったので、誰も履いていませんでした。

図2 パラメヒコが生まれる1年数か月前の写真です。当時16年ぶりのオリンピック出場を目指す日本代表(全日本)のサプライヤーがプーマでした。
予選本番前の強化試合でソクラテス選手率いるコリンチャンスに勝利し、予選突破の期待が高まりました。選手は皆さん西ドイツ製モデルを履いています。基本的に白シュータンですが、7番の都並選手は以前ご紹介したトレロかもしれません。
そんな一般プレーヤーの心理を激しくくすぐるモデルが、83年頃にいくつも登場しました(図3)。
価格は手ごろで、しかも西ドイツ製そっくりシュータンのプーマスパイクは、私のような「なんちゃってマラドーナ」を目指す若者にはとても魅力的でした。
しかし、価格を抑えるために、関税の高い西ドイツ製ではなく国産品でした(もちろん革の種類等も異なります)。
プーマもウソは書けないので、シュータンには「MADE IN WEST GERMANY」ではなく、「DESIGN PUMA WEST GERMANY」と記されていました(近くで見ないと違いはわかりません)。
今でこそメイドインジャパンはブランドですが、西ドイツ製シンドロームだった私には、その後も本物の西ドイツ製スパイクへの憧れがさらに強まるばかりでした。
一方、この時点ぐらいからサッカースパイクを購入され始めた方は、プーマのスパイクは白シュータンが当たり前と思われていたでしょう。
また、「MADE IN WEST GERMANY」と「DESIGN PUMA WEST GERMANY」の差など全く感じずに過ごされてきたかもしれませんが、図1の価格差や、図3のスパイクが登場した経緯を知っている我々世代にはとてつもない違いがあるのです。

さて、この頃は他社も次々と新作スパイクを発表していましたが、プーマはさらに斬新な日本製モデルも発売しました。
それが図4のプリメイロ(上)です。当時のサッカースパイクにしては珍しいカラーリングで、とてもユニークに感じましたが、いま見ると白い部分のデザインはパラメヒコと同じです(左下)。
その後、白いカラーは流行りませんでしたが、革の裁断パターンはパラメヒコに受け継がれています。デビュー当初はつま先二枚革で、その後、(コパムンのような)つま先ステッチ入りのプリメイログランデが登場し(右上)、おそらくこれらの技術を盛り込み、日本人の足型に合わせて誕生したのがパラメヒコではないかと想像しています。
以前、プリメイロ柄のパラメヒコが販売されていたようで(右下)、元ジュビロの服部選手が履いていたと思います。

図4 84年頃発売のプリメイロシリーズ(上)。取替え式はデルムンドという名称でした。下はパラメヒコシリーズ。
パラメヒコのかかとの部分が白いのはプリメイロの名残かもしれません。この部分は遠くからパラメヒコを見分けるために後々とても役に立ちました。多分、見分けようとしたのは私ぐらいだったかもしれませんが・・・。
残念ながらプーマ製品を身にまとって戦った日本代表は84年4月のロス五輪予選で惨敗してしまい、その後登場した和製プリメイロは、その嫌なイメージを払拭するためのプーマの肝入りモデルだったと思われます。
プリメイロの発表当時、84年夏の釜本選手引退試合に特別参加したペレ選手や、対戦相手の日本リーグ選抜の選手らが使用していました。
また、カズ選手もブラジル時代に履いていました(図5)。トヨタカップで来日した、不思議とプーマのスパイクは黒シュータンを好んだアルゼンチン代表のブルチャガ選手も履いていました(図6)。

図5 左2枚は84年夏の釜本選手引退試合。白ユニフォームは加藤久選手。ペレ選手(中央)。ブラジル時代のカズ選手(右)。プリメイロを履いています。ラインもこの時代には珍しい青や赤があってカラフルでした。 釜本選手のスパイクは今や幻の名品アディダス・スーパーカップです。

図6 85年1月のトヨタカップで来日したインディペンディエンテのブルチャガ選手。練習では黒シュータンのプーマスパイク(決して安いモデルではないはず)でしたが(左)、本番はプリメイロを履いていました(中央)。
ブルチャガ選手のスパイクは、86年W杯は黒シュータンのプーマ、その後アディダスも履き、90年W杯はディアドラでした。(右)84年9月末の日韓定期戦で勝利した時の加藤久選手。
プーマの新製品は名選手たちも使用し、一定の評価は得られたようでした。
しかし、日本代表のサプライヤーは84年秋の日韓定期戦からアシックスへと変わり、12回目の開催にして初めて、敵地ソウルで勝利しました(図6右、この時点で3勝7敗2分)。
この勝利でW杯予選に向け大きな弾みがついた日本代表は、苦戦しながらも85年10月末の最終予選まで勝ち進みました。
誰もがご存じの伝説の日韓対決で名品パラメヒコはデビューしますが、次回はその当時のギア伝説を私なりにご紹介します。 (写真は「BOA SORTE KAZU」三浦知良著、サッカーマガジン、サッカーダイジェスト、イレブン、Numberなどから引用)
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『神に愛された西独製サッカースパイク』
80年代に数々の伝説を生んだサッカー界のスーパースターを足元から考察した論考。
