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英雄たちが愛した歴史的スパイクVOL.11 ~『17歳のW杯選手のスパイク編』~

今回は後半にサッカー界の王様、ペレ選手(右)のシグネチャーモデルをいくつかご紹介しますが、この写真の左の選手がどなたかわかる方は、昔からのサッカー通ではないかとお察しします。お二人の共通点は写真が撮影された当時17歳であることです。

Icon 29634314 1815368455432881 1085668874 o 小西博昭 | 2018/06/13
(スパイクブログ始めました。https://maradonaboots.com/いよいよワールドカップが始まりますが、開会前に各国の登録選手が決まった時点で、今回も(多分)破られない記録があります。それは最年少出場記録で、82年スペイン大会に17歳と41日で出場した北アイルランドのホワイトサイド選手が、それまでのペレ選手の記録を更新しました。 

私はホワイトサイド選手と同い年ですが、日本が出場したこともない夢みたいな大会で、高校2年生がプレーしていることが当時信じられませんでした。

マンUでも活躍された名選手でしたが、怪我などにより選手生命は短かったようで、26歳で引退されたそうです。最年少記録の驚きとともに、W杯を見始めてからこの国のことを改めて認知し、日本の方が圧倒的に人口は多いのに、なぜ出場できないのかなどと様々な疑問を持った覚えがあります。
 

ロシア大会には、私が育った市よりも人口が少ない国が初出場します。サッカーは全世界でされているのに、本当に不思議なスポーツだと感じます。 さて、ホワイトサイド選手のスパイクはアディダスでしたが、北アイルランド代表選手は、当時珍しいポニーやナイキのスパイクを履いていました(図1)。 

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図1 82年W杯の北アイルランド代表選手の方々。大会最年少記録保持者・ホワイトサイド選手(右及び巻頭写真左)は188センチの恵まれた体格でした。86年大会は背番号10でした。   

ポニーのスパイクは、北米リーグNYコスモス時代のペレ選手も履いていました(図2左)。

コスモスの元イタリア代表のキナーリア選手(図2右端)もポニー愛用者で、何回か来日され、その度にやたらと点を取っていたイメージがあります。でも、もう亡くなられていたんですね・・・。

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図2 北米リーグや、78、82年のW杯では割と使われていたポニースパイク。 以前書きましたが、イタリアのロッシ選手も使っていました。しかし、 得点王を獲得した82年W杯は別のメーカーでした。   

82年W杯では日本でもお馴染みのセレーゾ選手(ブラジル)や、Jリーグ初代得点王としても知られるディアス選手もポニーを履いていました(図3左)。

ディアス選手は、初来日された79年のワールドユースでも得点王で、若い頃から一貫してスパイクはアディダス派だったようで、Jリーグ時代もアディダスでした。

しかし、ディアス選手が唯一W杯に出場した82年大会ではアディダスではなく、ポニーを履いていました。ただ、ソールはどう見てもアディダスだったようです(図3右)。 


Thumb efbc94図3 82年W杯のディアス選手。タックルしているのはベルギーの名選手クーレマンス選手。ユニフォームがアドミラルです(右上)。

クーレマンス選手は現役時代一貫してプーマスパイクユーザーだったと思います。ポニースパイクの取替え式のソールパターンがわからなかったのですが、北アイルランド選手のポニーのソール(中央下)と、ディアス選手の物は違うようです。
  

話をペレ選手に戻します。最年少出場記録は破られても、17歳でW杯初得点どころか、ハットトリックまで決めているのは王様たる所以だと思います。

巻頭写真の頃のスパイクのメーカーはわかりませんが、プーマには多くのペレ・シグネチャーモデルがあります(未確認ですが、17種類あるとのこと)。

私より年長の方ですと、真っ先に名前が挙がるのがキングペレで、74年当時で24000円もした超高級モデルでした(図4左)。ペレモデルは現役引退されてからも様々なモデルが発売され、私が存在を知った80年代で最も高価なモデルはペレキングでした。
 

このスパイクも、以前ご紹介したマレーシアの方から入手しました。特徴としてはライン等がシルバーであることと、かかと部分が厚いSPA(Special Protection Achilles)ソールであることです。

カタログの写真はシュータンに西ドイツ製の表記がありませんが、マレーシアから入手した物にはあります。
 

Thumb efbc95図4 ペレ・シグネチャーモデルの一例。左は74年頃のラインナップ。キングペレは復刻版がありますが、そちらは固定式です。

下中央はペレメキシコで、黄色のラインと内張りが今も鮮やかです。革はカーフのようです。
80年代のペレシリーズ最高峰モデル・ペレキング(右)。

右上はカタログ。右下はマレーシアから入手したもの。シュータンの西ドイツ製表記中、WEST
とGERMANYの間にハイフンが入ります。
  

ペレキングについては当時、銀色ラインモデルを使っているトッププレーヤーは記憶になかったのですが、探してみると1982年に来日したブレーメンの選手が使っていたようです(図5緑の選手)。ただ、驚いたことにシュータンをきれいに切っています(右下)。 

現在のスパイクはシュータンがない物が主流だそうですが、昔も長いシュータンをジャマと感じていた選手も少なからずいました。 プラティニ選手やジーコ選手もそうだったようです。

この選手はウーベ・ブラハトという方で、ブンデスリーガで272試合出場した名選手だったようですが、残念ながら63歳の若さでお亡くなりになられたようです。

最近、スポーツ界、芸能界で我々が若い頃の英雄の訃報をよく耳にするのは寂しい限りです。


Thumb efbc96図5 左は82年スペインW杯があった頃に、現在のキリンカップの前身の大会に奥寺選手が所属するブレーメンが参加した時の記事です。

シュータン切りブラハト選手のユニフォームのプーマは右向きです。
きれいなフォームでシュートしているのは戸塚選手で、アディダスのスーパーカップを履いています。日本代表が全日本と書かれ、「はつらつ」とか「ハッスル」といった言葉がよく使われていたと思います。   

初回コラムに昔のスパイクカタログは貴重であることを記しましたが、プーマジャパンのご厚意で古いカタログを拝見でき、改めてペレキングのモデル番号が494であることを知ることができました(図4右上)。

さらに驚いたことに、以前ラグビー用かと思って手に入れたモデル番号498のスパイクは元々ペレモデルであることもわかりました(図6)。
 

シュータンの西ドイツ製に小文字が入るモデルは80年代後期製造のスパイクだと思われます。また、カタログでは黒・黄色2色ソールですが、黒・白色タイプになっています。

ペレ選手が出場したW杯は58年スウェーデン、62年チリ、66年イングランド、70年メキシコでしたが、ストックホルム、ロンドンはそれから由来した名前だったのでしょうか? 
  

Thumb efbc97図6 実はペレ・シグネチャーモデルだったモデル番号498のスパイク。こちらもカタログのシュータンには西ドイツ製の表記がないようです。

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番台シリーズは取替え式でカンガルー革モデルが多いのですが、このモデルは牛革でかなり重厚な造りです。 アディダスにも70年代にリバプールというハイカットモデルのスパイクがありました。
  

さて、私のスパイクの趣味はかなり年代が偏っており、70年代や90年代以降についてはモデル名もよくわかっていないのが現状です。

未知なことは様々な方にいろいろ教えていただいているのですが、プーマシューズの歴史(特にスニーカー)に関しては、プーマジャパンも一目を置くマグフォリアの山田さんを頼りにしています。

https://www.instagram.com/magforlia_fujieda/
図7はお店に伺った時に拝見したコレクションの数々です。ペレモデルのスニーカーの他、サッカースパイクもエウゼビオやバイスバイラーモデルを見せていただきました。
 

Thumb efbc98図7 マグフォリア山田さんのご厚意で見せていただいた色とりどりのビンテージプーマスニーカー。黒白のサッカースパイクと対照的です。

右下はプーマロゴが右向きのシャツ。プーマジャパンの方曰く、昔は左右両方あったそうです。サッカーに熱い藤枝市のお店で、シニアサッカー界の重鎮の方(
https://www.instagram.com/to14shi/)を交えて、貴重な様々なお話をうかがえました。
    

次回はこの時期必ず目にする映像、「5人抜き」のスパイクについて書きたいと思います。 (写真は当時のサッカーマガジン、イレブン及びゲッティイメージズなどより引用)  

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神に愛された西独製サッカースパイク』
80年代に数々の伝説を生んだサッカー界のスーパースターを足元から考察した論考。