元Jリーガー横山翔平の挑戦! ~年俸0円の4部リーグから今季はクロアチア1部リーグへ Vol.1~
横山翔平という元Jリーガーをご存じだろうか?2016年にザスパクサツ群馬を契約満了となり、僅かな伝手をたどってクロアチアへ。クロアチア4部のチームに入団し、結果を出し続けると共にカテゴリーも上げ続け、なんと今シーズンからクロアチア1部リーグで戦う予定だ。ここに至るまで、どんな苦悩と喜びがあったのか?ザスパクサツ群馬を退団し、フリーの身となっていた彼にKING GEAR FCのメンバーとして戦ってもらったこともある。元チームメイトでもあるということで、帰国時にざっくばらんに話を聞いた。
菊池 康平
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2019/07/07
横山翔平は、群馬県出身で現在25歳。
前橋育英高校ではエースナンバーである背番号10を背負い、2011年(高校3年時)のインターハイでは全国ベスト8の結果を残し優秀選手に選ばれた。
高校卒業後に地元のチームでもあるザスパ草津(現:ザスパクサツ群馬)に入団。
――ザスパに入ってプロのレベルはどう感じました?
横山:フィジカルの差や判断のスピードの違いは凄く感じましたが、練習をしていく中で慣れてくる部分もあり、1年目の後半には試合に絡めるようになりました。結果的にシーズンを通して、半分近くは試合に絡めていたので1年目は凄く充実していました。
写真:6月に都内にて
――1年目は順調で、ザスパには4年間いましたよね。契約満了になってしまった要因は今振り返ると何だと思いますか?
横山:ひとつは怪我ですかね。3年目のシーズンの残り3ヶ月の時に第五中足骨を折ってしまい手術をしました。1番大事な3年目のその時期に怪我をしてしまい、結局そのシーズンはプレーに復帰できず、4年目は監督も変わったりもして、試合にあまり絡めなくなりました。
――5年目にFC町田ゼルビアへレンタル移籍しましたね?
横山:自分自身も成績が伸びなかったので、オファーを頂き環境を変える決意をしました。町田もJ3からJ2に上がった年でした。ずっと群馬で生まれ育ってきたので、町田への移籍が初めて外に出る経験でした。今まではサポーターの皆さんが、自分のことをもともと知ってくれていましたし、地元の選手という事で温かくしてくれていました。
町田では自分の存在をまず知ってもらうところからでした。もちろん町田のサポーターにも温かくしてもらい良くしてもらいましたが、新しい環境でゼロからのチャレンジとなりました。
――町田ではあまり試合に出れなかったと思いますが、振り返るとその要因は何だと思いますか?
横山:ひとつは監督のやり方をピッチで体現することが、今思えばなかなか出来ていなかったことと、その中で自分の良さも出せていなかったので、監督としては起用しづらかったと思います。
戦術にフィットしなくても自分の良さを出せたりとか、戦術を早く理解できるなど何かしら自分の特徴が出せていたら監督も起用しやすかったと思います。
――そしてレンタル元のザスパとも契約満了となりましたよね。それまでは高校時代も含めて、順調なサッカー人生だったと思いますが、どんな心境でした?
横山:高校時代も1年と2年時には試合に出れなかったこともありましたし、挫折も色々ありましたが、職を無くすという経験は初めてでした。ショックでしたし、これから自分がどんな道を進んでいこうか凄く悩み、いろんな方々に会って話を聞かせてもらいました。
サッカーをやめるという選択肢もありましたが、自分が今何をしたいのかということを最優先に考えて、チャレンジしようと思い海外を選択しました。
――なぜ海外を選びクロアチアの4部という下のカテゴリーのチームを選んだんですか?
横山:もともと海外でプレーしてみたいという気持ちがありました。 何も伝手がなかったので、自分で動いて見つかったチームがクロアチアの4部だったんです。
――どうやって探したんですか?
横山:海外でプレー経験のある友人にクロアチア4部リーグのチームのオーナーをFacebook上で紹介してもらい、メッセージのやり取りをしてクロアチアへ渡ったんですよ。オーナーから「とりあえず来てみろ!」と言われて。
――道場破りに近いですね!
横山:まさにそうなんですよ!オーナーの顔とかもよくわからなくて。Facebookの写真を見てもサングラスをかけているから、全く分からなくて。クロアチアの空港に着いたら、やたらこっちを見ている人がいて、その人がオーナーで車でチームがある街まで連れて行ってもらいました。
――連れていかれた街は?
横山:ネデリッシュという街でかなり田舎でした。
――給料など条件はどんなものでした?
4部のチームですので給料は0円です。アマチュアリーグなんで。日本からの飛行機代も自腹ですし。
練習環境も良くないですし、アマチュアなんで練習着もバラバラです。週に3回しかない夜の練習にも仕事で来れない選手もいました。Jリーグからこのクラブに行った時のギャップは凄かったですよ。凄いとこに来てしまったなと。
――レベルは?
横山:日本人みたいな上手さはもちろんなかったですが、試合では練習で見せない凄いプレーを繰り出す選手がいましたし、激しさはありました。
言葉も通じないし、プレーの感覚が合わない部分があったので、その中で活躍する難しさは感じましたよ。サッカーはチームプレーなので。
――ポジションは?
横山:FWをやりました!最初はサイドハーフをやっていたんですが、点を取らないと認められないので「FWをやらしてくれ!」と言いました。とにかくこのカテゴリーだったら点を取らないと何も見てもらえないので。
――チームに合流し、すぐに試合に出場して順調なスタートでしたが、大変なことが起こりましたよね?
横山:最初の試合でアシストして、次の試合で点を取って信頼を得られつつある中で、4試合ぐらい経過した後に、試合中に鎖骨を折りました。相手が激しいスライディングをしてきて、変な着地をしてしまったんです。
Vol.2へつづく
写真提供:横山翔平
前橋育英高校ではエースナンバーである背番号10を背負い、2011年(高校3年時)のインターハイでは全国ベスト8の結果を残し優秀選手に選ばれた。
高校卒業後に地元のチームでもあるザスパ草津(現:ザスパクサツ群馬)に入団。
――ザスパに入ってプロのレベルはどう感じました?
横山:フィジカルの差や判断のスピードの違いは凄く感じましたが、練習をしていく中で慣れてくる部分もあり、1年目の後半には試合に絡めるようになりました。結果的にシーズンを通して、半分近くは試合に絡めていたので1年目は凄く充実していました。
写真:6月に都内にて
――1年目は順調で、ザスパには4年間いましたよね。契約満了になってしまった要因は今振り返ると何だと思いますか?
横山:ひとつは怪我ですかね。3年目のシーズンの残り3ヶ月の時に第五中足骨を折ってしまい手術をしました。1番大事な3年目のその時期に怪我をしてしまい、結局そのシーズンはプレーに復帰できず、4年目は監督も変わったりもして、試合にあまり絡めなくなりました。
――5年目にFC町田ゼルビアへレンタル移籍しましたね?
横山:自分自身も成績が伸びなかったので、オファーを頂き環境を変える決意をしました。町田もJ3からJ2に上がった年でした。ずっと群馬で生まれ育ってきたので、町田への移籍が初めて外に出る経験でした。今まではサポーターの皆さんが、自分のことをもともと知ってくれていましたし、地元の選手という事で温かくしてくれていました。
町田では自分の存在をまず知ってもらうところからでした。もちろん町田のサポーターにも温かくしてもらい良くしてもらいましたが、新しい環境でゼロからのチャレンジとなりました。
――町田ではあまり試合に出れなかったと思いますが、振り返るとその要因は何だと思いますか?
横山:ひとつは監督のやり方をピッチで体現することが、今思えばなかなか出来ていなかったことと、その中で自分の良さも出せていなかったので、監督としては起用しづらかったと思います。
戦術にフィットしなくても自分の良さを出せたりとか、戦術を早く理解できるなど何かしら自分の特徴が出せていたら監督も起用しやすかったと思います。
――そしてレンタル元のザスパとも契約満了となりましたよね。それまでは高校時代も含めて、順調なサッカー人生だったと思いますが、どんな心境でした?
横山:高校時代も1年と2年時には試合に出れなかったこともありましたし、挫折も色々ありましたが、職を無くすという経験は初めてでした。ショックでしたし、これから自分がどんな道を進んでいこうか凄く悩み、いろんな方々に会って話を聞かせてもらいました。
サッカーをやめるという選択肢もありましたが、自分が今何をしたいのかということを最優先に考えて、チャレンジしようと思い海外を選択しました。
――なぜ海外を選びクロアチアの4部という下のカテゴリーのチームを選んだんですか?
横山:もともと海外でプレーしてみたいという気持ちがありました。 何も伝手がなかったので、自分で動いて見つかったチームがクロアチアの4部だったんです。
――どうやって探したんですか?
横山:海外でプレー経験のある友人にクロアチア4部リーグのチームのオーナーをFacebook上で紹介してもらい、メッセージのやり取りをしてクロアチアへ渡ったんですよ。オーナーから「とりあえず来てみろ!」と言われて。
――道場破りに近いですね!
横山:まさにそうなんですよ!オーナーの顔とかもよくわからなくて。Facebookの写真を見てもサングラスをかけているから、全く分からなくて。クロアチアの空港に着いたら、やたらこっちを見ている人がいて、その人がオーナーで車でチームがある街まで連れて行ってもらいました。
――連れていかれた街は?
横山:ネデリッシュという街でかなり田舎でした。
――給料など条件はどんなものでした?
4部のチームですので給料は0円です。アマチュアリーグなんで。日本からの飛行機代も自腹ですし。
練習環境も良くないですし、アマチュアなんで練習着もバラバラです。週に3回しかない夜の練習にも仕事で来れない選手もいました。Jリーグからこのクラブに行った時のギャップは凄かったですよ。凄いとこに来てしまったなと。
――レベルは?
横山:日本人みたいな上手さはもちろんなかったですが、試合では練習で見せない凄いプレーを繰り出す選手がいましたし、激しさはありました。
言葉も通じないし、プレーの感覚が合わない部分があったので、その中で活躍する難しさは感じましたよ。サッカーはチームプレーなので。
――ポジションは?
横山:FWをやりました!最初はサイドハーフをやっていたんですが、点を取らないと認められないので「FWをやらしてくれ!」と言いました。とにかくこのカテゴリーだったら点を取らないと何も見てもらえないので。
――チームに合流し、すぐに試合に出場して順調なスタートでしたが、大変なことが起こりましたよね?
横山:最初の試合でアシストして、次の試合で点を取って信頼を得られつつある中で、4試合ぐらい経過した後に、試合中に鎖骨を折りました。相手が激しいスライディングをしてきて、変な着地をしてしまったんです。
Vol.2へつづく
写真提供:横山翔平