Nike

NIKE HISTORY

NIKEはわずか30年あまりでアスリートと共に世界トップのスポーツカンパニーに成長した。Just Do It。このスローガンはそのチャレンジ精神をあらわしている。

Icon kinggear icon KING GEAR編集部 | 2016/05/18
 1964年、元陸上選手のフィリップ・ナイトとオレゴン大学の陸上部コーチだったビル・バウワーマンによって、ナイキの前身となる『ブルーリボンスポーツ(BRS)社』が設立。同社はアメリカにおける日本製スポーツシューズ(オニツカタイガー)の販売代理店だったが、やがてスポーツシューズの研究開発に着手。70年にはバウワーマンが設計したランニングシューズ「CORTEZ(オニツカ製)」が大ヒットし、同社における独立の機運は高まった。
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 71年、BRS社は満を持してシューズブランドを立ち上げた。それこそが「ナイキ」だった。同年ナイキとして初めて製作・販売されたのはサッカースパイク「ザ・ナイキ」。70年メキシコW杯を記念して製作されたこのスパイクには、当時すでに商標登録されていたトレードマーク「スウッシュ」の姿が見られるが、このデザインはオレゴン大学の女子学生によるもので、報酬はわずか35ドルだった。またブランド名の「ナイキ」は、BRS社の正社員第1号、ジェフ・ジョンソンが夢の中で勝利の女神「ニケ(NIKE)」の姿を見たことがきっかけと云われている。いずれもブランド草創期らしいエピソードだ。
  

ナイキという社会現象
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 陸上コーチ時代からシューズを製作していたバウワーマンには、発明家の才が備わっていた。74年に発売されたスニーカー「ワッフルトレーナー」。そのクッション性、トラクション性に優れた画期的なアウトソールを、バウワーマンはワッフルを焼く鉄板から着想したという。スエードの施されたナイロンアッパーとスウッシュのコントラストが絶妙で、なによりその履き心地からワッフルトレーナーは大ベストセラーに。

 79年、発明家フランク・ルディが考案したナイキの代名詞「エア」がお目見え。発明家ルディは「エア」のアイデアを各メーカーに持ち込んだが、聞き入れられず、ただ一社ナイキだけが関心を示したという。この類まれなクッショニングシステムの搭載第1号となったのは「テイルウインド」だった。
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エア・システムはナイキに飛躍的な発展をもたらす。85年、シカゴ・ブルズのユニフォームをモチーフにした赤黒カラーで初代「エア・ジョーダン(Ⅰ)」が登場した。ブルズ(NBA)のスーパースターだったマイケル・ジョーダンのシグネチャーモデルとしてスタートした「ジョーダン」シリーズは、「Ⅳ」が発売された89年頃からファッションアイテムとして熱狂的な支持を集め、アメリカではエア・ジョーダンをめぐる強盗事件が起きるなど、その存在自体が社会現象化した。ナイキはブランド設立から30数年後、未曽有の“ナイキバブル”によってスポーツシューズの勢力図を塗り替えたのだった。

進化するナイキフットボール

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 94年、ナイキフットボールのアイコン的存在となる「ティエンポ・プレミア」が登場。その後優れたフィット性とボールタッチを実現する同シリーズからは「ティエンポ・レジェンド」など多くの名作が生まれていく。
 


98年に誕生し、ブラジル代表FW“怪物”ロナウドが同年のフランスW杯で着用した高速スパイクが、初代「マーキュリアル」だ。デザインもロナウドからインスピレーションを得るなど「ロナウドのためのスパイク」だったマーキュリアルは


その後ポルトガル代表の“もう一人のロナウド”をアイコンに起用。14年にはナイキ史上最速を謳った「マーキュリアル スーパーフライ」を発表した。アッパー全体に「ブリオケーブル」と呼ばれる繊維を張りめぐらせて安定感を確保するなど、4年にわたる試行錯誤のすえに行き着いたスーパーフライは、技術革新により発展を遂げたナイキのアイデンティティを感じさせるギアになっている。
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スーパーフライが発売された14年、ナイキのフライニット・テクノロジーを初導入したスパイク「マジスタ」も発表。これはゲームメーカーの使用を想定し、フィット感、ボールタッチ、蹴り出しの向上に軸足が置かれている。近年のナイキは意欲的にサッカースパイクの新境地への挑戦を続けている。