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「子どもたちの夢の道しるべに」プロソフトテニスプレイヤー・船水雄太が挑む、競技1本で生きていく未来の創生

プロ野球やサッカーのように、1試合、1プレーで大きな注目を浴びる競技もあれば、世界の頂点を極めても、誰にも目を向けてもらえない競技もある。ソフトテニスもそのひとつ。硬式テニスと比べてもプロ選手がほとんどおらず、世界を見回しても賞金がかかる大会も多くはない。その中で、ソフトテニス界を変えるための活動に全力で取り組んでいるのが、プロソフトテニスプレイヤー・船水雄太だ。2015年開催の世界選手権で優勝し、国際大会では数々のタイトルを獲得。同競技界で彼を知らない人はいないだろう。2020年からはプロに転向し、選手活動と並行してソフトテニスの普及発展に尽力している。そんな船水に、これまでの競技経歴を振り返ってもらいながら、プロとしての挑戦の裏にある強い想い、ソフトテニス界の現状と未来について語ってもらった。※メイン画像:撮影 / 長田慶

Icon 1482131451808 佐藤 主祥 | 2024/07/24

夢を馬鹿にされてから「3000日」かけて到達した世界の頂き

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撮影/長田慶
ーーソフトテニスを始めたきっかけを教えてください。
 
父が高校のソフトテニス部監督で、母も競技経験者という環境で育ったというのと、出身地である青森県がソフトテニスが盛んな地域で、小さい頃から遊びのひとつとして生活の中心にありました。なので両親に促された、というより遊びから自然とやり始めたことがきっかけとしてあります。

ーーほかに競技はされていましたか?
 
野球やサッカー、スキーなどいろんなスポーツをしていました。加えて青森という土地柄、雪がかなり積もるので、冬は外のスポーツができないためピアノや将棋も習っていましたね。自由になんでもやらせてもらえる環境でした。

ーー硬式テニスをやろうとは思わなかったのですか?
 
あまり思わなかったですね。ソフトテニスの競技人口は小学・中学生の時期が圧倒的に多いですし、周りに硬式テニスをしている友達がいなかったので、触れる機会自体ほとんどありませんでしたから。

ーーその中でソフトテニスに専念しようと思ったのはなぜですか?
 
やはり、やっていて1番得意で楽しかったことが大きな理由のひとつです。中学からほかの競技はやめて、ソフトテニス1本に絞りました。ただその後、選手としての先の目標が見えずに競技をやめてしまった時期があったんです。ゴミ箱にラケットを捨ててしまうほど「どうしよう……」と悩んでいました。

そんな時、ソフトテニスの世界一になった方が地元でイベントを開いてくれたんです。そこで初めて世界大会があることを知りました。海外には、より高いレベルで戦える舞台があるのだと。その瞬間、僕の中でスイッチが入った感じがしました。

すぐにゴミ箱からラケットを取り出して、世界一だけを目指して必死にトレーニングに励みました。練習の量を増やすにつれて質が向上し、気持ちも高まって、徐々に成績も出てきました。世界大会の存在を知らなければ、おそらくソフトテニスを続けていなかったと思います。いま振り返っても、世界チャンピオンとの出会いは本当に大きかったですね。

ーーその後は高校3年生でインターハイ団体・個人の2冠に輝き、大学時代にはインカレで団体戦、ダブルス、シングルス全タイトルを獲得。同4年時には目標であった世界選手権で優勝されました。一気に頂点まで駆け上がることができた背景には、何が原動力としてあったのでしょう?
 
僕が「世界一になる」と言って頑張り始めたとき、周りから「無理だよ」と否定され、すごく馬鹿にされたんです。僕の言葉を誰も信じていませんでしたし、期待もされていなかったと思います。「彼らを見返したい」。この気持ちを、世界タイトルを取るまでの大きなエネルギーに変えていました。

ですが、ただがむしゃらに練習するだけでは頂点にはたどり着けません。なので夢を実現するために、毎日テニスノートを書くようにしたんです。僕が世界選手権で優勝する“Xデー”を決め、そのゴール設定から逆算し、最大目標を達成するための行動や要素を細かく書き記しました。“Xデー”まで残り3,000日……という感じで中学から大学4年の世界選手権まで書き続けて、実際に優勝することができたので、本当に面白い体験をしましたね。


「子どもたちにとってのロールモデルに」。プロ転向と会社設立に至ったワケ

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撮影/長田慶
ーー目標達成するための行動力や気持ちの強さ、それらを長期間維持する忍耐力、本当にすごいです! 
 
ありがとうございます。結果的に国内ではほとんどのタイトルを取り、アジア大会や世界大会など、さまざまな国際大会でメダルを獲得することができました。ただ、日本代表として活動をしていく機会が増えていく中で、あることに気づいたんです。

というのも、まずソフトテニスの魅力や面白さというのは、選手活動を通じて広めていました。でも結局、競技を極めた先の未来が見えづらい状況であることは、ずっと変わっていなかったんです。たとえば硬式テニスだったら、錦織圭選手のような世界的に有名なスター選手がいるので、「こういう選手になりたい」という具体的なイメージができるじゃないですか。

一方のソフトテニス界には当時、国内にプロ選手がいなかったので、僕が世界チャンピオンになっても認知度が低いのが現状。このままでは次世代の子どもたちも、僕の中学時代のように競技をやめてしまうかもしれない。だったら自分が、目標となるような存在になろうと、動き出したんです。

ーーそれが「プロソフトテニスプレイヤー」への転向だったわけですね。
 
はい。僕より1年先に、2019年4月、弟の(船水)颯人が日本人初のプロ選手になったことも大きかったですね。彼が勇気を出して道を拓いてくれたおかげで、僕自身、新たな挑戦ではありながらも、その一歩を踏み出しやすかったので。

兄弟でプロ選手として活躍していくことで、「ソフトテニスだったら船水選手だよね」と思ってもらえるような存在になることもそうですし、それによって競技を頑張った先に見える景色は素晴らしいものだと、子どもたちに感じてもらえる、そんな世界にしていきたい。

さらにこの道で食べていける仕組みづくりができれば、もっと希望を持って、ソフトテニスを愛し、競技を続けていく人が増えていくはず。そのために僕らがロールモデルとなって、子どもたちの夢や目標の道しるべになりたいと、そう思ったんです。

ーー基本的に海外でさえ賞金が出る大会は少なく、獲得賞金だけで食べていくのは厳しい世界。その中で踏み出したおふたりの勇気ある一歩は、今後の日本ソフトテニス界にとって本当に大きなものとなるように感じます。プロ転向後は具体的にどんな活動をされていったんですか?
 
2020年4月にプロ転向すると同時に、元ソフトテニスプレイヤーである荻原雅斗と日本初の同競技のプロチームと選手に特化したマネジメント会社『AAS Management 合同会社(エースマネジメント)』を立ち上げ、全国でイベントやレッスンを開いたりと、ソフトテニスで食べていく仕組みを作っていけるような活動をしていました。

この時期は新型コロナウイルスが流行し始めたタイミングということもあり、国内外での大会は2年間、開催が中止となってしまったので、選手としての活動は長らくできずにいたんです。なので会社の仲間と一緒に、ソフトテニスの可能性を広げるための事業に重きをおいて動いていました。

ーーそうだったのですね。会社を設立する経緯というのは?
 
荻原とは東北高校の3つ先輩で、入れ違いではあるんですけど、現在はカンボジアチーム代表ヘッドコーチをしているので、国際大会に出場する際によく会っていたんです。その頃は世界でタイトルを取っても、僕の今後やソフトテニス界の未来が見えてこないという問題に直面していた時期だったので、それについて相談していました。

すると、そういう現状の課題を打破するための考えや思いを話してくれて。僕も共感したというのもあり、次世代の子どもたちの可能性を広げるべく、ふたりでエースマネジメントを設立するに至ったんです。


ソフトテニスを「見るスポーツ」へ。大会開催にかける想い

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撮影/長田慶
ーーただ、コロナ禍の影響で選手活動同様、会社として動くのも大変だったのではないですか?
 
めちゃくちゃ大変でした(笑)。もともと大学卒業後は実業団に所属していたんですけど、プロ転向と会社を設立する半年から1年前には退社が決まっていて。その時はまだコロナの感染者が出る前でしたから、新たな挑戦に向けて着々と準備を進めていたんです。けど、流行し始めてから実業団を辞めるまでに対策をしたり、どうするか考える時間があまりなかったので、本当に大変でしたね。

ですが、コロナの影響で中止になる競技や大会が多い中で、無観客という形式で開催する試合が少しずつ増えていったんです。それを参考に何かできないかと考え、たどり着いたのが、大会の創設です。

2020年12月、ソフトテニスとしては国内初の賞金大会『JAPAN GP 2020』を開催しました。ここに至るまでには、無観客試合の開催をするにあたって必要なことを自分で取材し、クラウドファンディングなどで資金調達をして、選手としても出場したりと、やれることはすべてやりました。

大きなリスクを抱えながらの挑戦ではありましたけど、たくさんのソフトテニスを愛する人たちに支えられたからこそ、最終的に優勝賞金も200万円出せるまでになり、無事に開催することができました。関わってくれた方々には、本当に感謝しています。

ーーその後も継続して大会を開催されているんですよね。
 
はい。おかげさまで、2022年に第2回、翌年に第3回と継続して開催することができています。第2回大会からは有観客試合となり、昨年には約2,000人来場したりと、国内のソフトテニス大会としては1番大きい規模感で運営できるようになりました。

さらに、エンターテイメントの面でも回を重ねるごとにスケールアップをしていて。バスケットボールのように試合中にDJを導入したり、音楽を流したりと、今までのソフトテニスにはなかった要素を取り入れています。

それもあってテレビ局からも注目してもらえるようになり、TBSのYouTubeチャンネルで大会の模様を流してもらえたりと、少しずつ、幅広く、知ってもらえるようになってきました。

ーーテニスの試合だと、プレー中は観客は静かにすることがマナーとしてあるので、すごく新鮮ですね。ソフトテニスの「見るスポーツ化」に向けた大きな一歩でもあるなと感じます。
 
そう思います。やはりプレーする側だけでなく、見ている側も楽しくないと、チケット代を払ってでも見に行こうとはなかなかならないと思うので。両者が盛り上がるために、必要であればもっとエンタメ性の部分も追求していこうと考えています。

これまで誰も挑戦してこなかった道なので、まだなにが正解なのかわかりません。ですが、いろんな業種の方々にアドバイスをもらいながら、大会をどんどんバージョンアップさせていき、ソフトテニスにしかないものを作り上げていけたらなと。

ーープロになられてから、より競技の普及・発展のための活動というのは、船水選手自身の中でも大きく、競技人生において重要な要素になってきている気がします。
 
そうですね。これまで直面してきた業界の内側、ソフトテニスをやっている人たちだけで盛り上がっても結局、世界は広がっていかないという現実。数々のトッププレイヤーが頂点を極めても、その先になにも見えず、悩み苦しんできた過去。それらを払拭するためにも、外の世界の人たちにもソフトテニスを知ってもらわなければいけません。

そのためにもまず『JAPAN GP』をさらに盛り上げていって、大会を通じて競技の魅力を発信し、国内におけるソフトテニス界の未来を、より良いものにしていけるよう頑張っていこうと思っています。

1993年10月7日生まれ、青森県黒石市出身。
5歳からソフトテニスを始め、中学から世界一を目指し競技に専念。東北高校3年でインターハイ団体・個人の2冠に輝き、早稲田大学進学後はインカレで団体戦、ダブルス、シングルス全タイトルを獲得。全日本大学対抗ソフトテニス選手権では4連覇を成し遂げた。同4年時の2015年には世界選手権のメンバーに選出され、国別対抗戦で世界一になり、中学生時代からの夢を叶える。翌年には全国約200チームあるソフトテニス実業団の最高峰、NTT⻄日本に加入し、ソフトテニス日本リーグ10連覇を達成。日本代表としても、数々の国際大会で優勝するなど第一線で活躍を続けた。2020年には、弟の(船水)颯人に続く日本人2人目のプロソフトテニスプレイヤーとして独立し、国内における同競技の普及・発展に尽力。2024年からはアメリカで人気沸騰中のスポーツ「ピックルボール」の選手としても活動を開始し、米プロリーグ「メジャーリーグ・ピックルボール(MLP) 」に挑戦中。日本人初のMLP選手を目指す。