
「もし、怪我さえなければ」才能と苦悩の狭間でサッカーを愛した男たちを振り返る(後編)
ピッチに立ち続けることが、どれだけ尊いことなのか。彼らは教えてくれた。名を知られた才能たちが、選手生命を脅かす怪我と向き合い、それでもサッカーをやめなかった理由。そこには「夢」や「希望」なんて言葉では語り尽くせない、静かな覚悟があった。齊藤未月、内田篤人、石川直宏。この3人の闘いからは、輝きと痛みが背中合わせであることを、私たちに静かに伝えてくれた。※トップ画像出典/Pixabay

怪我と歩んだ539日の記録、齊藤未月
齊藤未月は1999年1月10日生まれ、神奈川県藤沢市出身。湘南ベルマーレの下部組織からトップチームへと昇格した、生粋の湘南育ちのプレーヤーだ。身長166cmと小柄ながら、卓越した守備力と無尽蔵のスタミナで注目を集めてきた。トップ昇格後は早くから主力として活躍し、U-20日本代表ではキャプテンを務めるなど、その実力と人間性への信頼は厚かった。 各年代の代表チームに名を連ね、将来のA代表、さらには海外でのプレーも期待される存在だったが、2023年8月19日のJ1第24節・柏レイソル戦で、信じられない事態が起きる。こぼれ球に反応した齊藤の膝に、2方向から相手選手のタックルが入った。主審の判定はノーファウル。しかしその直後、齊藤の足は大きく曲がったまま動かなくなっていた。診断結果も衝撃的だった。「左膝関節脱臼」「左膝複合靱帯損傷(前十字靭帯断裂、外側側副靱帯断裂、大腿二頭筋腱付着部断裂、膝窩筋腱損傷、内側側副靱帯損傷、後十字靭帯損傷)」「内外側半月板損傷」。聞いたことがないほど、膝の構造がほぼすべて破壊されていた。極めて深刻な怪我だった。復帰までの目安は約1年とされた。ACL(前十字靭帯)の断裂だけでも長期離脱は避けられないなか、それ以外の靱帯・腱・半月板にも複雑な損傷を負っており、「選手生命に関わる大怪我」と報じられる。復帰後、どこまで本来のプレーを取り戻せるのかは誰にもわからなかった。
それでも齊藤は諦めなかった。黙々とリハビリに励む彼の姿は、クラブの公式動画でも取り上げられ、多くのファンの心を打った。そして奇跡が起こる。2025年2月8日、あの大怪我から539日ぶり、誰もが祈っていた齊藤未月の姿がJリーグの舞台へ帰ってきた。苦しく、長い怪我との闘いの日々を越え、サッカーができる喜びを噛みしめながら、再び歩き始めた男の未来に、私たちは希望を託したい。再び、日の丸を背負って躍動するその日を、心から楽しみにしている。
満身創痍で走り続けた石川直宏
石川直宏は1981年5月12日生まれ、神奈川県横須賀市出身の攻撃的オールラウンドプレーヤーだ。その名を聞けば、多くのサッカーファンが彼の圧倒的なスピードと情熱的なプレースタイルを思い浮かべるだろう。彼のサッカー人生は、輝かしい成功と度重なる試練が交錯する、まさにドラマチックなストーリーをもつ。
石川は、横浜マリノスジュニアユース追浜、横浜マリノスユースと横浜F・マリノスのアカデミーで育ってきた選手。当初は体格差やクラムジー症候群の発症、さらにはポジション変更など、数々の困難に直面していたが、持ち前の努力と情熱でそれらを乗り越え、彼の代名詞であるスピードが徐々に磨かれ、サイドアタッカーとしての才能が開花していく。しかし横浜F・マリノスのトップチームに昇格するもなかなか出場機会を得られず、2002年に出場機会を求めてFC東京へ移籍。ここで彼の真価が発揮されることに。右サイドハーフとして、圧倒的なスピードとドリブル突破で相手ディフェンスを翻弄し、2009年シーズンにはリーグ戦で15得点をあげ、キャリアハイの成績を収めたのだ。この活躍が評価され、Jリーグベストイレブンに選出されるとともに、日本代表にも復帰した。
だが、運命のいたずらは残酷だった。2005年、古巣の横浜F・マリノス戦で、右膝前十字靭帯および右膝外側半月板を損傷。全治8か月の重傷を負ってしまう。2006年ドイツW杯に向けた準備期間中だっただけに、その悔しさは計り知れない。さらに2009年、柏レイソル戦では得意のスピードで相手DFを置き去りにして決めたゴールにサポーターが歓喜するも、倒れた石川の表情は明らかに異常だった。ゴールの瞬間、今度は前回とは逆足の左膝前十字靭帯を損傷してしまったのだ。その場に倒れ、何度も地面を叩いて悔しさを露わにする姿が印象的だった。この時も2010年南アフリカW杯の直前という大事な時期だった。サッカー選手であれば誰もが立ちたい、W杯の舞台。石川は、不運にも2度、そのチャンスを奪われてしまった。その後も2010年、2014年、2015年、2016年と膝の故障や半月板損傷、腰椎椎間板ヘルニアなど、文字通り「満身創痍」の状態でプレーを続けた。きっと彼だけでなくサポーターたちも、彼の圧倒的なスピードと情熱的なプレーで世界屈指のDFたちを翻弄する姿を心から見てみたいと思っていただろう。
うっちーの名で愛されたサイドバック、内田篤人
内田篤人は1988年3月27日生まれ、静岡県田方郡出身。清水東高校から鹿島アントラーズに入団し、高卒ルーキーながら1年目からレギュラーに定着。Jリーグ3連覇を支える若き右サイドバックとして活躍し、19歳にして念願の日本代表デビューも果たした。内田の名が知られるようになったのは、2010年のドイツ・シャルケ04への移籍からだ。持ち前のスピード、精度の高いクロス、そして戦術理解の高さはブンデスリーガでも通用した。2011年にはチャンピオンズリーグで、日本人として初のベスト4進出を達成。強豪バレンシアや長友佑都が所属していたインテルを破り、準決勝ではマンチェスター・ユナイテッド戦にスタメン出場。その姿は、日本サッカーの誇りそのものであった。
しかしその裏で、内田の膝は静かに悲鳴を上げていた。2014年には肉離れとは別に、膝裏の腱を損傷。ブラジル・ワールドカップを控えていたため手術は回避したが、痛みを抱えながら無理をしてピッチに立ち続けていた。しかし、2015年3月のホッフェンハイム戦でついに膝が限界を超え爆発する。右膝の膝蓋腱(しつがいけん)を負傷。手術とリハビリを経ても完治には至らず、1年半以上の長期離脱を余儀なくされた。復帰後も満足なパフォーマンスを取り戻すことはできず、出場時間も大きく減少。2018年には鹿島アントラーズに復帰するが、2020年、惜しまれながら現役を退いた。サッカー選手として終わったんだな」と引退会見でそう静かに語った言葉は、華やかな欧州キャリアの裏で、いかに怪我と戦い続けていたかを物語っていた。
彼が築いた“右サイドバック像”は今も確かに残っている。サイドバックは守るだけのポジションではない。ゲームを読み、主導権を握り、日本人が世界の舞台で戦えることを示してくれた。もしあの怪我がなければ、欧州のトップクラブへの移籍も、決して夢物語ではなかっただろう。「もしも」を想像させる内田篤人のサッカー人生は、誰よりも美しく、そして誇らしいものだった。