受け継がれる一本足打法、心に残る「大丈夫」—。片平晋作が女子プロ野球に残したもの。
「大丈夫」 人を勇気付け、背中を押す時によく用いられるとてもシンプルなワードだ。ただ、言葉というのは不思議なもので、発するのが誰かによってその重みは何倍にも増すものである。 埼玉アストライアの選手たちにとって、片平晋作氏がかけてくれる「大丈夫」はそんな重みのある大切な、安心感をもたらす言葉となっていた。
森 大樹
|
2018/04/27
最後の姿は数ヶ月前にグラウンドで。突然の訃報に驚き。
2018年1月22日、日本女子プロ野球リーグ・アドバイザーを務める片平晋作氏が膵臓がんのため68歳で亡くなった。 現役時代は南海、西武、横浜大洋で活躍し、王貞治氏のフォームに似た、美しい一本足打法で人々を魅了。特に西武時代には在籍5シーズンで4度のリーグ優勝、3度の日本一に貢献し、黄金時代を築いた1人である。引退後は西武でコーチ・編成部長・2軍監督を歴任したほか、解説者として選手を見守り続けた。
女子プロ野球ではイースト・アストライア(現・埼玉アストライア)初代監督を務めて以降、リーグのアドバイザーとして同チームの指導を行なっていた。
筆者が最後に会話をしたのは昨年の秋のこと。ちょうどアストライアが連勝を重ね、ライオンズが上位を窺っていた時期だ。ちょっとした会話の折に片平氏と縁の深い両チームの好調具合に触れると笑顔を見せていた。ほんの数ヶ月前に会話した記憶があったが故に、訃報を聞いた時には私自身大変驚いた。
それぞれに残した言葉、一本足打法の伝承。
冒頭の言葉は今回の取材にあたって、片平氏が残した印象的な一言としてアストライアの選手のみならず、スタッフからも挙がったものだ。それぞれが片平氏との思い出を持っているにもかかわらず、共通の言葉を挙げるということは、この一言に多くの人が救われていたということだろう。「片平さんはいつも冗談を言って、その場を盛り上げ、前向きな言葉で選手のやる気を出してくださっていました。キャプテンとしてお世話になって以降、常に私がチームの先頭に立ってやっていくように言われていました。」
そう話した川端友紀選手は片平氏とアストライア初年度の2013年に監督とキャプテンという立場で接し、ティアラカップ優勝を共に勝ち取った。 自身はその年から遠ざかっている首位打者の奪還を目標に掲げているが、それは片平氏との約束でもある。チーム最年長となった今年に懸ける想いは強い。
昨年アストライアが年間女王を獲得した時にキャプテンを務めた楢岡美和選手は片平氏の一本足打法の最後の伝承者ともいうべき存在だ。勝負強い打撃と片平氏直伝のフォームで打線を引っ張っている。
「片平さんはいつも構えた時に全てが決まるとおっしゃっていました。立った時に打てると思ったら打てるし、打てないと思えば打てない。だからいつでも打てる準備をするようにと言われていました。」
ランナーのいる重要な局面で結果を残すバッティングは片平氏から教わった意識の持ち方と共に取り組んできた練習の賜物だ。一昨年、昨年と2年連続で打点ランキング2位という結果を受け、今年は初の打点王獲得を目指している。
片平氏を追悼する特別ユニフォームを着用する楢岡選手。
怪我で近年は苦しみながらも、昨季アストライアで大活躍を見せ、世界初の打撃三冠女王を獲得してギネス記録認定を受けた岩谷美里選手。今年からは移籍し、京都フローラのキャプテンを務めるが、片平氏とは行きつけの店に連れていってもらうほどの仲だった。
「おいしいラーメン屋さんがあるということで片平さんと一度ご一緒したことがあって、それから私もハマってしまい、プライベートで行く時に連絡したら来てくださったんです。食べて待ってろと言われたのでラーメン、チャーハン、餃子といろいろ注文して…もうお腹いっぱいなのになかなか来なくて。やっと来てくれたと思ったら寿司屋に移動するぞ!と言われてさすがにきつかったですね(笑)」
昨年9月18日に行われた所沢での対ディオーネ戦では解説席で片平氏が見守る中、レフトへ柵越えホームランを放っている。解説を務めていた片平氏は喜び、『北海道のおじいちゃん、おばあちゃん聞いてますか!』と北海道出身の岩谷選手のご家族に興奮気味に語りかけた。
「今思うと目の前で片平さんにホームランを見せられて、本当によかったなと思います。」と思い出を振り返りながら笑顔で語ってくれた。
<続く>
写真・取材=森 大樹
日本女子プロ野球リーグ:https://www.jwbl.jp/
埼玉アストライア:https://www.jwbl.jp/astraia/
片平晋作(かたひら・しんさく)=元プロ野球選手、野球指導者、解説者
1949年8月5日生まれ。上宮高校から東京農業大学を経て、1971年ドラフト4位で南海ホークスに入団。1982年からは西武ライオンズに移籍。2年連続の日本一などに貢献し、西武黄金時代を築いた。1987年に大洋ホエールズに移籍し、1989年に現役引退。
通算1181安打、176本塁打、601打点、打率.274。
引退後は西武1軍打撃コーチ、2軍打撃コーチ、2軍監督などを歴任した後、2013年に女子プロ野球のイースト・アストライア(現・埼玉アストライア)初代監督に就任し、ティアラカップ優勝に導いた。翌年以降もアドバイザーとしてリーグに残り、選手の指導にあたった。2018年1月22日に膵臓がんのため、死去。享年68。