発起人Kの独り言・番外編 vol.12『体脂肪29.9%からの大逆襲/イケてる身体に俺はなる! その5・ベンチプレスが上がらず、愕然とするわたし』
子供と一緒にプールに行ったときに、恥ずかしくない身体になる! お酒大好き、運動嫌いなキングギア発起人の金子達仁(50歳)は、ひょんなことからパーソナルトレーナーと出会い、イケてるボディを目指してトレーニングを開始したのだが…。
金子 達仁
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2016/10/24
忘れもしない、あれは24歳の時だった。
テニス雑誌『スマッシュ』の下っぱ編集者として忙しい毎日を過ごしていたわたしは、週末、広告代理店のサッカー・リーグ、その名も「大江戸ダイナマイトリーグ」に助っ人として参加していた。高校時代はただの1試合も公式戦に出場できなかったわたしだが、社会人の草サッカーにとってGK経験者の存在価値は大きく、不動の守護神として君臨していたのである。
草とはいえ、各チームには例外なく大学体育界でバリバリにやってた方が何人かいて、また、本業のコネを生かして強力な助っ人を連れてくるチームも珍しくなかった。
実際、わたしも電通の助っ人として登場したわが師匠セルジオ越後と対決し、CKの際にスパイクに「カーッ、ペッ」とたんつばを吐きかけられ唖然としているところ、ちょこんとヘディングを決められたことや(「相手のスパイクにつばかけちゃいけないとはルールブックには書いてないからね」と師はのたまった)、実は超絶テクニシャンだった川平慈英さんとチームメイトとして戦い、ついでに一緒に合コンに行っちゃったことなどもある。
ま、そんなこんなで楽しくやっていたのだが、24歳の5月、我が「協同広告」は初のリーグ優勝に王手をかけていた。最終戦、引き分け以上なら優勝が決まる。たかが草、されどわたしにとっては人生初の優勝である。気合は入りまくり、その日のために2万円ぐらいするウールスポーツの最高級GKグラブも手に入れた(つまり、メーカーからもらった)。
で、決戦の日。
早い時間に先制した協同広告。だが、優勝への意識からかその後守勢一方となり、わたしは大忙しとなった。優勝がかかった状況でチームを救い続けるわたくし。ベンチからは応援に来てくれた女子社員の嬌声が聞こえてくる。雨でぬかるんだグラウンドで泥だらけになりながら、こんな状況を経験したことのないわたしは酔った。自分に酔った。でもって、過度のヒロイズムが必要以上にわたしを勇敢にした。
かくして、事故は起きた。
試合の終盤、協同広告の最終ラインが裏を取られた。動きの鈍いセンターバックはアテにならない。わたしは高校時代にだってできなかったぐらいのスピードで猛然と飛び出し、これまた猛烈なスピードで突っ込んでくる相手FWの足元に敢然と身を投げ出した。
左膝後十字じん帯全断。
あれから26年がたつが、この時の、相手のスパイク裏が膝関節のすぐ下にめり込んだ瞬間を超える痛みには、いまだ出くわしたことがない。とにかく、あまりにも痛すぎて声が出なかった。ただ膝を抱えてのたうつのみ。
いま思い出してもむかっ腹が立つのは、この状況を作った諸悪の根源でもある鈍重なセンターバック、戸塚啓がニヤニヤ笑っていたことだ。
「もうさ、カネコさんそんな姑息な時間稼ぎはいいから、さっさと立ちましょうよ」
てめえぶっころす!と心の中で絶叫しながら、でも無言で芋虫のようにのたうつしかないわたくし(ああ、こうやって書いてるだけでまた殺意が湧いてくる)。
わたしは24歳だった。時は5月だった。生まれ年の1966に24をプラスすると、答えは1990になる。つまり、イタリア・ワールドカップが開幕する直前の時期だった。
助っ人としてサッカーダイジェスト編集部にレンタルされることが決まってたのに。
増刊号用の原稿を執筆する現地特派員とは別に、本誌用にテレビを見て全試合の原稿を書くことも決まってたのに。
左膝は石膏ギプスで固められ、歩行には松葉杖が必要だった。横浜の自宅から本郷にある会社まで通うのは到底無理な状況である。というわけで、ワールドカップ期間中、わたしは会社近くにある編集長のマンションに居候させてもらうことになった。
すっかり前置きが長くなってしまいました。
ワールドカップが終わったあと、わたしはリハビリをかねてスポーツクラブに通うようになった。学生時代、死ほど筋トレは嫌いだったのに、クラブで正しい指導を受け、プロテインを摂るようになったらみるみるウチにマッチョな身体ができあがっていった。
確か、胸囲は120センチぐらい、ベンチプレスも90キロぐらいを10回以上パンパンあげていたと思う。
それが24歳の時。でもって、いまのわたしは50歳。
『Body Gold』での最初のトレーニングの時、自分の身体の90パーセントが自分ではなくなってしまった、という話は前回書いた。 26年間のブランクは、想像以上に我が肉体を劣化させていた。
ベンチプレス、20キロが5回上がりませんでした。
取材協力/人気の隠れ家マンツーマンジム(代々木上原徒歩5分)に興味を持った方は、上のバナーをクリック!
テニス雑誌『スマッシュ』の下っぱ編集者として忙しい毎日を過ごしていたわたしは、週末、広告代理店のサッカー・リーグ、その名も「大江戸ダイナマイトリーグ」に助っ人として参加していた。高校時代はただの1試合も公式戦に出場できなかったわたしだが、社会人の草サッカーにとってGK経験者の存在価値は大きく、不動の守護神として君臨していたのである。
草とはいえ、各チームには例外なく大学体育界でバリバリにやってた方が何人かいて、また、本業のコネを生かして強力な助っ人を連れてくるチームも珍しくなかった。
実際、わたしも電通の助っ人として登場したわが師匠セルジオ越後と対決し、CKの際にスパイクに「カーッ、ペッ」とたんつばを吐きかけられ唖然としているところ、ちょこんとヘディングを決められたことや(「相手のスパイクにつばかけちゃいけないとはルールブックには書いてないからね」と師はのたまった)、実は超絶テクニシャンだった川平慈英さんとチームメイトとして戦い、ついでに一緒に合コンに行っちゃったことなどもある。
ま、そんなこんなで楽しくやっていたのだが、24歳の5月、我が「協同広告」は初のリーグ優勝に王手をかけていた。最終戦、引き分け以上なら優勝が決まる。たかが草、されどわたしにとっては人生初の優勝である。気合は入りまくり、その日のために2万円ぐらいするウールスポーツの最高級GKグラブも手に入れた(つまり、メーカーからもらった)。
で、決戦の日。
早い時間に先制した協同広告。だが、優勝への意識からかその後守勢一方となり、わたしは大忙しとなった。優勝がかかった状況でチームを救い続けるわたくし。ベンチからは応援に来てくれた女子社員の嬌声が聞こえてくる。雨でぬかるんだグラウンドで泥だらけになりながら、こんな状況を経験したことのないわたしは酔った。自分に酔った。でもって、過度のヒロイズムが必要以上にわたしを勇敢にした。
かくして、事故は起きた。
試合の終盤、協同広告の最終ラインが裏を取られた。動きの鈍いセンターバックはアテにならない。わたしは高校時代にだってできなかったぐらいのスピードで猛然と飛び出し、これまた猛烈なスピードで突っ込んでくる相手FWの足元に敢然と身を投げ出した。
左膝後十字じん帯全断。
あれから26年がたつが、この時の、相手のスパイク裏が膝関節のすぐ下にめり込んだ瞬間を超える痛みには、いまだ出くわしたことがない。とにかく、あまりにも痛すぎて声が出なかった。ただ膝を抱えてのたうつのみ。
いま思い出してもむかっ腹が立つのは、この状況を作った諸悪の根源でもある鈍重なセンターバック、戸塚啓がニヤニヤ笑っていたことだ。
「もうさ、カネコさんそんな姑息な時間稼ぎはいいから、さっさと立ちましょうよ」
てめえぶっころす!と心の中で絶叫しながら、でも無言で芋虫のようにのたうつしかないわたくし(ああ、こうやって書いてるだけでまた殺意が湧いてくる)。
わたしは24歳だった。時は5月だった。生まれ年の1966に24をプラスすると、答えは1990になる。つまり、イタリア・ワールドカップが開幕する直前の時期だった。
助っ人としてサッカーダイジェスト編集部にレンタルされることが決まってたのに。
増刊号用の原稿を執筆する現地特派員とは別に、本誌用にテレビを見て全試合の原稿を書くことも決まってたのに。
左膝は石膏ギプスで固められ、歩行には松葉杖が必要だった。横浜の自宅から本郷にある会社まで通うのは到底無理な状況である。というわけで、ワールドカップ期間中、わたしは会社近くにある編集長のマンションに居候させてもらうことになった。
すっかり前置きが長くなってしまいました。
ワールドカップが終わったあと、わたしはリハビリをかねてスポーツクラブに通うようになった。学生時代、死ほど筋トレは嫌いだったのに、クラブで正しい指導を受け、プロテインを摂るようになったらみるみるウチにマッチョな身体ができあがっていった。
確か、胸囲は120センチぐらい、ベンチプレスも90キロぐらいを10回以上パンパンあげていたと思う。
それが24歳の時。でもって、いまのわたしは50歳。
『Body Gold』での最初のトレーニングの時、自分の身体の90パーセントが自分ではなくなってしまった、という話は前回書いた。 26年間のブランクは、想像以上に我が肉体を劣化させていた。
ベンチプレス、20キロが5回上がりませんでした。
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