「ボクサーからカエル研究者へ」――金メダリスト“入江聖奈”が選んだ新たな戦い
オリンピックで金メダルを手にし、ボクシング界の頂点に立った入江聖奈。しかし、その瞬間、彼女はすでに次の道を見据えていた。「東京オリンピックが終わったら辞めよう」――そう決めていたのだ。 勝ち続けた先に待っていたのは、期待とプレッシャー、そして「金メダリストとしての自分」との戦い。だが、入江はリングを降り、まったく異なるフィールドへと足を踏み入れた。今、彼女が向き合っているのは、ボクサーではなく、カエル たちだ。一見、まるで違う世界。しかし、そこに共通するのは 「探求する姿勢」。勝利を追い求めたボクサーは、なぜ研究者として新たな挑戦を始めたのか? そして、彼女が今も変わらず戦い続けているものとは? ボクシング、カエル、そしてその先へ――。入江聖奈が探し続ける“なりたい自分”の今を追う。※トップ画像撮影/松川李香(ヒゲ企画)

「金メダルを取った瞬間、人間不信になりました(笑)」
「能ある鷹は爪を隠す」。
この言葉に出会ったのは、小学生の頃だった。
「ことわざを読むのが好きで、かっこいいのを探してたら、この言葉を見つけたんです。それで、『謙虚に、おごらず、偉ぶらずに生きたいな』って思いました。」
幼い頃から勝ち続けていた入江にとって、それは「強さ」の定義 でもあった。
「別にエリートみたいな意識はなかったですよ(笑)。ただ、親にも『謙虚でいなさい』ってよく言われていたので、自然とそういう価値観になっていたのかもしれませんね。」
しかし、東京オリンピックで金メダルを取った瞬間、その「謙虚でいること」は、思いがけない形で試されることになる。
「金メダルを取った瞬間、人間不信になりました(笑)」
オリンピック前、世間は彼女にそれほど期待していなかった。だが、金メダルを取った途端に、周囲の反応は一変した。
「急に『入江はすごい!』って言われ始めて…正直、『いや、それ、オリンピック前に言ってよ!』って思いました(笑)。」
持ち上げられる違和感と、「結局、人は肩書きで判断するんだな」という現実。
「金メダルって、こんなにも人の評価を変えるものなんだなって思いました。だから、ちょっと軽く人間不信になりましたね(笑)。」
それでも時間が経てば、周囲の熱も落ち着いてくるかと思った。だが、新たなプレッシャーがのしかかる。
「オリンピック後の試合では、『金メダリスト・入江がどんな試合をするのか?』 っていう視線を感じました。その期待に応え続けなきゃいけないプレッシャーがすごくて…。それがしんどかったですね。」
「夢の先に待っていたのは、次の夢ではなかった」
そして、彼女は「ボクシングをやめる」決断をする。
「ボクシングは、オリンピックまでと決めていた」
東京オリンピックの 1か月前 。
「もう、このオリンピックが終わったら、ボクシングをやめようと思ってました。」
「これ以上の夢を描けない」と感じたわけではない。
「プレッシャーがすごかったんですよね。私はそこまで期待されていた選手じゃなかったのに、それでも感じる重圧が大きくて…。『これ、パリオリンピックまで耐えられないな』って思いました。」
だから、東京オリンピックまで全力で走り切る。そう決めていた。
「で、オリンピックが終わったタイミングで、スパッと引退しました。」
金メダルを取ったことで、「もう少し続けてもいいかな」とは思わなかったのか?
「全くなかったですね。むしろ、金メダルを取ったからこそ『やめよう』と思いました。」
もし、パリでメダルを取れなかったら『なんか残念な人』みたいに思われるかもしれない。
「だったら、みんなが『金メダルを取ったすごいやつ!』って言ってくれてる間にやめよう、と思いました。」
「辞め時を決めるのも、選手のセンス」そう言わんばかりの潔さだった。
「カエル好き」としてメディアに出たことが、すべての始まりだった
ボクシングを辞めた彼女が次に進んだのは、まったく異なる世界だった。
カエルの研究者。
オリンピック後、「カエル好き」としてメディアで紹介されることが増えたのがきっかけだった。
「テレビに出る機会も増えて、『もしカエルのクイズとか出されたら、ちゃんと答えられないとヤバいな…』と思って(笑)。そこから、もっと本格的に勉強しようと思ったんです。」
「そんなに好きなら、大学院に行けばいいのに」
日本代表の先輩に、そう言われた。
理系とは無縁だった日体大の学生生活。大学院に進むのは、小さい頃からその道を目指してきた人だけだと思っていた。
だが、その一言が、考えを変えた。
「行っていいんだ」
そう思えた瞬間、うれしさが込み上げた。
専門書の1冊目を開いた。そこに並ぶのは、見たこともない専門用語の数々。
「何を言っているのか、まったくわからない」
それでも、苦にはならなかった。
「大好きなカエルの研究に、一歩ずつ近づいている――」
その実感が、ただひたすらに嬉しかった。
どんなに疲れていても、机に向かう。それは、自分との約束だった。
1日2、3時間。試験直前には、5、6時間。積み重ねた時間は、自信へと変わっていった。
「カエルを守るには、森全体を知らなければならない」
学ぶほどに、知るべきことが広がっていった。
気づけば、大学院で「都会のカエル」を研究するようになっていた。
「都会って、生き物にとってはすごく厳しい環境じゃないですか。でも、そんな場所でも生きているカエルがいる。『なぜ彼らは都会で生き延びられるのか?』を研究しています。」
調査のために、公園や寺の水場などを深夜まで歩き回る生活。
「カエルは夜行性なので、私も完全に夜型になってます。調査が遅いと朝6時くらいまで続くこともあるし、帰宅が夜中の3時半とか普通ですね。」
研究室にいるのは、体育会系とはまったく違うタイプの人たち。
「今まで私はスポーツの世界しか知らなかったので、理系の人たちって、どういう考え方をするんだろう? ってすごく興味がありました。でも、実際に接してみると、みんなそれぞれ葛藤を抱えていて、人間味があるんだなって。」
まったく違う世界に飛び込んで、新しい価値観に触れる日々。
「私はたまたまカエルの研究を選びましたけど、一生スポーツに関わる道を選ぶ人も、それはそれでいいと思います。結局、『自分の“好き”をどこまで信じられるか』 が大事なのかなと。」
「なりたい自分を探しながら」――彼女の次のゴングが鳴る
ボクシングからカエルの研究へ。世界がガラリと変わった今、彼女に「将来の理想像」はあるのか?
「うーん…何をやっててもいいんですけど、将来の自分には 『常に努力している人間』 でいてほしいですね。」
そして、もう一つ。
「南海トラフ地震が来たときに、『ああ、頑張った人生だったな』 って思って死ねるように生きたいです。」
どんな道を選んでも、「やり切った」と思えることが大事。
「『なりたい自分』が何なのか、まだ分からないですね。でも、とにかく 毎日を出し切って生きていたい な、とは思います。」
カエルの研究に没頭する日々。夜型の生活、深夜の調査。
「今日もやり切った!」そう思える毎日を積み重ねながら、彼女はまた次の「戦い」を続けている。
――なりたい自分を、探しながら。
入江聖奈(いりえ・せな)
2000年10月9日生まれ、鳥取県出身。小学2年生の時に読んだ小山ゆうの「がんばれ元気」の影響で、米子市内唯一のボクシングジムに入門。高校2年と3年で全日本女子選手権(ジュニア)を連覇を果たし、2018年世界ユース選手権にて銅メダルを獲得。日体大へ進学後、2021年東京オリンピックボクシング女子フェザー級に日本代表として出場し、金メダルを獲得した。日本女子アマチュアボクシング選手として史上初の金メダリストで鳥取県出身で史上初の金メダリストとなった。2022年11月に引退。日体大卒業後、カエル研究のため、東京農工大学院に進学。
Hair&make:Chiyo Kato (PUENTE.Inc)
Photo:Rika Matsukawa