東京で世界の頂点へ。頭脳派の美人フェンサー、宮脇花綸が描く未来Vol.1
世界中のアスリートたちは、いま、強烈な引力に吸い寄せられるかのように、東京に向かっている。その中でも最も引力が強い場所にいるのは、紛れもなく、ここ日本のアスリートたちだ。キングギアでは、自国開催というまたとない機会に、強固な決意とともに日々厳しいトレーニングに励む日本の女性アスリートたちを紹介していく。第一回目となる今回は、日本フェンシング界のヒロイン、宮脇花綸選手だ。ジュニア時代から輝かしい実績をあげ、日本代表に定着後も着実に成長を続ける彼女に、自身が描く東京への道のりを語ってもらった。
瀬川 泰祐(せがわたいすけ)
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2018/03/01
宮脇花綸プロフィール
東京生まれ。慶應義塾大学経済学部3年。5歳からフェンシングを始め、東洋英和中から慶應義塾女子高校に進学。高校1年の時に、太田雄貴選手から具体的目標を立てることの重要性を学び、オリンピックを目指すことを決意した。13年にはシニアの日本代表チーム入りを果たす。14年7月のIOC南京ユース五輪で銀メダルを獲得し、世界ジュニアランキング2位をマークした。
キングギアの読者の中には、フェンシングのことを知らない人も多いと思いますので、まずは、フェンシングを始めたきっかけから教えてください。
5歳上の姉の影響でフェンシングを始めました。姉は、剣道がやりたかったのですが、家の近くにはフェンシングスクールしかなく、「セーラームーンや怪傑ゾロもやっているし、西洋版の剣道ということで良いのではないか?」という母の勧めで、フェンシングを始めました。私は母と一緒に姉の送り迎えをしていただけだったんですが、気づいたら、剣を握ってフェンシングを始めていましたね。ちょうど小学校受験が終わった頃でした。
フェンシングを始めてみて、どうでしたか?
面白くて、すぐにハマりました。幼い頃から活発な子で、男の子たちと遊ぶことが多かったのですが、フェンシングだと、年上のお兄さんにも頑張れば勝てたので、そこが面白かったですね。
小さい頃からフェンシング一筋だったのですか?
そんなこともなかったです。フェンシングを始めた頃は、今のように遠征もなかったですし、毎日学校に行って授業を受けて、勉強もしっかりやっていました。勉強も嫌いじゃなかったです。
宮脇選手はジュニアの頃から輝かしい成績を残してきたわけですが、フェンシングで上を目指そうと思ったきっかけは何だったのでしょう?
フェンシングスクールの先輩に、「一度話をしてみたら良い刺激になるかもしれないよ」って言われて、太田雄貴さんにお会いすることになりました。高校1年生の時です。それまでは、勉強もしていましたし、将来の夢を「フェンシングの選手になる」とは言い切れなかったんです。特にフェンシングという競技は日本で一番になったとしても、それだけでは生活していけないという側面があります。すごくハイリスク・ローリターンな世界。だから、それまでは、勉強もして、フェンシング以外の選択肢も残していたんです。
太田さんと会う前は、どういう話をされるんだろうと不安に思っていました。そして、いざ会って見ると、いきなり“オリンピックでメダルを取るためには”っていう話をされて、1年ごとの目標や、その目標を達成するためにはどういうことをしていけばいいかというのを全部書かされたんです。とにかく、「オリンピックでメダルを取る」という前提で話をされたことがすごく衝撃的でしたね。話を聞いているうちに、太田さんはメダルを取るべくして取った人、そこまでしないと取れないんだなって感じました。正直なところ、話を聞いた時点ですぐに、「フェンシングの選手として生きていこう」とか、「フェンシングでメダルを取ろう」って思ったわけではないんです。でも、モチベーションが上がって気持ちがフェンシングに傾くと、練習の質も上がり試合の結果も出てくるようになり、いい流れができていきました。こうして「ああ、もっとがんばろう!」って思って過ごしてきて、気がついて振り返ってみたら、あの時がターニングポイントだったんだなって思うようになりました。
第二話へ
取材・文・写真:瀬川泰祐
東京生まれ。慶應義塾大学経済学部3年。5歳からフェンシングを始め、東洋英和中から慶應義塾女子高校に進学。高校1年の時に、太田雄貴選手から具体的目標を立てることの重要性を学び、オリンピックを目指すことを決意した。13年にはシニアの日本代表チーム入りを果たす。14年7月のIOC南京ユース五輪で銀メダルを獲得し、世界ジュニアランキング2位をマークした。
きっかけは姉の影響
キングギアの読者の中には、フェンシングのことを知らない人も多いと思いますので、まずは、フェンシングを始めたきっかけから教えてください。
5歳上の姉の影響でフェンシングを始めました。姉は、剣道がやりたかったのですが、家の近くにはフェンシングスクールしかなく、「セーラームーンや怪傑ゾロもやっているし、西洋版の剣道ということで良いのではないか?」という母の勧めで、フェンシングを始めました。私は母と一緒に姉の送り迎えをしていただけだったんですが、気づいたら、剣を握ってフェンシングを始めていましたね。ちょうど小学校受験が終わった頃でした。
フェンシングを始めてみて、どうでしたか?
面白くて、すぐにハマりました。幼い頃から活発な子で、男の子たちと遊ぶことが多かったのですが、フェンシングだと、年上のお兄さんにも頑張れば勝てたので、そこが面白かったですね。
小さい頃からフェンシング一筋だったのですか?
そんなこともなかったです。フェンシングを始めた頃は、今のように遠征もなかったですし、毎日学校に行って授業を受けて、勉強もしっかりやっていました。勉強も嫌いじゃなかったです。
宮脇選手を変えた太田雄貴会長との出会い
宮脇選手はジュニアの頃から輝かしい成績を残してきたわけですが、フェンシングで上を目指そうと思ったきっかけは何だったのでしょう?
フェンシングスクールの先輩に、「一度話をしてみたら良い刺激になるかもしれないよ」って言われて、太田雄貴さんにお会いすることになりました。高校1年生の時です。それまでは、勉強もしていましたし、将来の夢を「フェンシングの選手になる」とは言い切れなかったんです。特にフェンシングという競技は日本で一番になったとしても、それだけでは生活していけないという側面があります。すごくハイリスク・ローリターンな世界。だから、それまでは、勉強もして、フェンシング以外の選択肢も残していたんです。
太田さんと会う前は、どういう話をされるんだろうと不安に思っていました。そして、いざ会って見ると、いきなり“オリンピックでメダルを取るためには”っていう話をされて、1年ごとの目標や、その目標を達成するためにはどういうことをしていけばいいかというのを全部書かされたんです。とにかく、「オリンピックでメダルを取る」という前提で話をされたことがすごく衝撃的でしたね。話を聞いているうちに、太田さんはメダルを取るべくして取った人、そこまでしないと取れないんだなって感じました。正直なところ、話を聞いた時点ですぐに、「フェンシングの選手として生きていこう」とか、「フェンシングでメダルを取ろう」って思ったわけではないんです。でも、モチベーションが上がって気持ちがフェンシングに傾くと、練習の質も上がり試合の結果も出てくるようになり、いい流れができていきました。こうして「ああ、もっとがんばろう!」って思って過ごしてきて、気がついて振り返ってみたら、あの時がターニングポイントだったんだなって思うようになりました。
第二話へ
取材・文・写真:瀬川泰祐