平昌五輪メダリストたちが語る、ファンへの感謝と新たな決意Vol.4【日本代表帰国報告会〜スピードスケート選手編〜】
平昌五輪の日本代表選手団による帰国報告会が東京・六本木の東京ミッドタウンで行われ、日本中に勇気と感動を与えたメダリストたちが、この日集まった5000人のファンの前であいさつを行った。第4回となる今回は、計6個のメダルを獲得したスピードスケート選手団のインタビューを届けする。主将の小平奈緒選手はもちろん、2人でメダルを量産した高木美帆選手と高木菜那選手の高木姉妹、そしてチームパシュートメンバーの佐藤綾乃選手と菊池彩花選手が登場。快挙を連発した彼女たちが、苦しみを乗り越えて掴み取ったメダルへの想いを語った。
佐藤 主祥
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2018/03/30
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平昌五輪で金3、銀2、銅1、計6個のメダル獲得、加えて入賞9という成績を残した日本スピードスケート選手団。
メダルを取るどころか、入賞もわずかに4だった2014年ソチ五輪から大躍進を遂げた。
なぜ、4年間で日本のスピードスケート界はここまで飛躍したのだろうか。
その大きな要因は、2014年夏に日本スケート連盟が所属先の垣根を越え、年間を通じて活動するナショナルチームを設立したところにある。
小平奈緒選手はソチ五輪後の2シーズンはオランダに留学したが、その他の日本のトップ選手を集め、4年後の平昌五輪へ向けて強化を図った。
ただ日本代表クラスの選手を集めて練習しただけではない。
スピードスケート大国オランダ出身のヨハン・デビットをコーチとして招き、選手の練習メニューや体調を全て管理。
さらに、血液検査や体力数値を基にした効率的なトレーニングを取り入れることで、ソチ五輪で代表落ちした高木美帆選手や、姉の高木菜那選手らを急成長させることに成功した。
コーチとしての手腕が評価され、同コーチは平昌五輪後に契約を更新。今後も日本代表を躍進に導いた“オランダ流の指導体制”を継続していく。
選手団でインタビューのはじめに呼ばれたのは、スピードスケート女子の500mで史上初の金メダル、1000mで銀メダルに輝いた小平奈緒選手。
冬季五輪で日本選手団の主将を任された選手は「金メダルを取れない」と言われてきたが、得意の500mを五輪新記録でゴールし、そのジンクスを見事に打ち破った。
そんな選手としても主将としても日本チームを牽引してきた小平選手に、日本代表の応援団長・松岡修造さんが今大会の想いを問うと、明るい笑顔で一言ずつ答えていった。
松岡:僕も現地で見ていましたが、小平さんが発する言葉は世界中に伝わってきましたよ。一番この五輪で感じたことって何だったんですか?
小平:やはり、世界の輪とか、応援してくださる皆さんとの繋がりを感じました。
松岡:特に500mで「心の底から自分を信じることができた」ことが、僕は一番嬉しかったんです。そういう大事な場面で信じることができましたが、そこには何が見えたんでしょう。
小平:皆さんの笑顔が見れましたね。
松岡:素敵ですね。壮行会の時に、僕らで「届け、勇気!」って言った時に、小平さんは「勇気をもらえました」と話していましたが、その勇気は競技を通してどういった形で出てきましたか?
小平:私にとって勇気というのは、覚悟することなんです。なので、皆さんに勇気をもらえたことで、試合で覚悟を決めることができました。ありがとうございます。
最後に松岡さんが「今回は日本の皆さんに勇気を届けてください」とお願いすると、小平選手は金メダルを持ちながら「皆さんに勇気を届けます、勇気っ!」と笑顔で応えた。
続いて呼ばれたのは、1000mで銅メダル、1500mで銀メダル、パシュート(女子団体追い抜き)で金メダルを獲得した高木美帆選手。
女子個人種目で初の複数メダルを手にし、同時に一大会での「メダル全色コンプリート」を達成。これは冬季五輪の日本勢としては初の快挙となった。
振り返ると、初めて五輪に出場したのは、15歳の“スーパー中学生”として立った2010年バンクーバー五輪。本番では1500mで23位、1000mでは完走した35選手中最下位という成績だった。
その4年後、借りを返したいと思い挑んだソチ五輪の選考会。だが、夢の舞台に戻ることすら叶わなかった。
「8年前や4年前の悔しさは、五輪の結果でしか晴らせない」
五輪という舞台で勝つ自分だけをイメージして、どんな厳しいメニューにも耐えてきた。
そして今大会、悲願のメダルを手にし、この8年間が間違っていなかったことを証明して見せた。
ここまでの想いを聞くと、喜びを噛み締めながらも、エースらしく淡々と話していった。
松岡:美帆さんは、「勝負」とか「勝ちたい」とかあまり言わない方なんですが、今回は本当に勝負できた大会だったと思います。今振り返って、この五輪はどうでした?
高木美:本当に最後まで足掻き続けることができた大会だったなと思います。
松岡:足掻いたということは、苦しんだ部分があったのでしょうか?
高木美:そうですね。まず3000mで5位になった時に、滑りの感覚がイマイチしっくりこなかったんです。それで、次の1500mに向けて気持ちを切り替えるという中でも、最後まで「どうしたらいいか」というのを考え続けました。ただ、考えすぎて1500mが終わった後には心身ともに疲弊し切っていたんです。ですが、1000mに挑むにあたって「もう一回頑張りたい」という風に、皆さんのメッセージを聞いて思い、もう一回立ち向かおうと気持ちを入れ直しましたね。最後のチームパシュートは、やはり一番取りたいメダルだったので、ずっとみんなで「どうしたらいいか」というのを考えながら臨みました。なので終始、体や心を整えるという部分で、ずっと足掻き続けられたかなと思います。
松岡:美帆さんにとって五輪って、今大会に出るまでは嫌な思い出が多かったと思います。でも今はどうですか?
高木美:楽しかったって一言で言うには、辛いことも多かったかなとは思います。それでも、こうやって皆さんの笑顔もたくさん見れましたし、自分でも出し切ったなって思えるので、とても幸せな大会になったと思いますね。
日本のファンにとって「幸せ」という言葉は、8年間苦しみ続けた彼女から最も聞きたかった言葉だったのではないだろうか。
まだ4年後の北京五輪に出場することは決めかねているが、現役続行する意向は明かしている。
この8年間の努力と、今大会で達成した女子初の快挙を信じ、ここから先は新たな道を切り開いていく。
続いてマイクを握ったのは、高木美帆選手の姉・高木菜那選手。
パシュートに加えて、新種目のマススタートでも優勝し、日本女子として冬季五輪で初めて一大会2個の金メダルを獲得した。
「天才少女」と呼ばれていた妹に対し、“美帆の姉”と呼ばれてきた高木菜那選手。
それだけに、金メダル2つというお姉ちゃんが成し遂げた偉業は日本中の涙を誘った。
誰も味わうことができなかった2つの金メダルについて聞かれると、高木菜那選手らしく終始笑顔で答えていった。
松岡:いや、失礼なこと言いますよ?皆さん、菜那の快挙は今大会で一番びっくりしたでしょ!?夏も含めて、女性が金メダル2つ取ったのは初めてなんですよ。本当におめでとう!
高木菜:ありがとうございます!
松岡:史上初のことを、お姉さんやってのけました。今の感想をお聞かせください。
高木菜:正直まだ実感ないんですけど、新種目のマススタートで金メダルを取れたことは本当に嬉しく思います。
松岡:マススタートで最後に抜く時、どんなことを考えていたんですか?
高木菜:抜く前は「いくぞ、いくぞ、いくぞ〜!」って思ってたので、本当に前に出れてよかったです(笑)
松岡:でも我慢するの大変だったでしょ!?
高木菜:いつ出ようかっていうのを自分でも考えながら、待って、待って、待ったことが良かったかなと。
松岡:その金メダルもずっと待ってたはずです。実際、金メダルを2つ持ってみると、どんなことを想うんですか?
高木菜:本当に嬉しいですね。それにこうやって多くの方が応援してくれて、今日もこうやって歓迎してくれてるので、そのたくさんの想いが募った金メダルだなぁと思います。
松岡:練習中の時は膝を気にされていたし、相当痛かった中で試合に臨んだと思うんですよ。その勇気と力はどこからやってきたんですか?
高木菜:結団式の時からみんなに勇気を届けてもらって、それが今回自分の力になって試合に臨めたんです。本当にたくさんの人が応援してくれたからこその金メダルだと思います。ありがとうございました!
そして4人目に登場したのが、パシュートのメンバーとして金メダルを獲得した、チーム最年少の佐藤綾乃選手。
新種目となったマススタートでは、一回戦でカナダ選手の転倒に巻き込まれる形で自らも転倒。決勝進出の条件となる上位8人に残ることができず、涙を流した。
しかし、パシュートの決勝では高木姉妹とともに出場し、息の合ったスケーティングでチームを勝利に導いた。
松岡:パシュートのメンバーとして、最後まで見事に乗り切ったと思うんです。あの決勝を振り返って、いかがですか?
佐藤:本当に決勝の前はものすごく緊張していて、五輪ならではの緊張感を味わうことができました。その中でも、一緒に戦ってきた先輩たちがいましたし、たくさんの方々の応援があったからこそ、その緊張を乗り越えることができたんだと思います。
松岡:なるほど。初めての五輪はどんな舞台で、どんな景色でした?
佐藤:今思うことは、すごくいい経験や学びを得ることができて、たくさん吸収することができた大会でした。初めての五輪は一言で言うと、「すごくいい経験ができた」。それに尽きると思います。
そして、最後のインタビューに登場したのは、同じくパシュートで金メダルを手にした菊池彩花選手。
最年長としてチームを支え、準決勝では佐藤選手に代わって高木姉妹を“休ませる滑り”に徹した。
足の大けがを乗り越えて五輪に臨んだ菊池選手。「みんなの活躍が刺激になってここに立つことができた」と仲間への思いをかみしめながら、インタビューに応えていった。
松岡:菊池選手は、パシュートで「私が盾になる」って言ってたじゃないですか。準決勝で出場した時は、どんな想いで滑っていたのですか?
菊池:私にできることは本当にそれぐらいしかなかったので、とにかく2人(高木姉妹)の足をできるだけ休ませて、決勝でしっかり滑ってもらえるようにと思って滑りました。
松岡:気持ちを一つにして戦ったからこその金メダルですね。ここに来るまでの4年間、どういう想いだったのでしょう?
菊池:もう一日一日というか、一瞬一瞬というか、本当に全てが詰まった4年間だったので、金メダルを取った時はこう…グッときましたね。
松岡:実際にメダルを手にした瞬間はどんな想いだったんですか?
菊池:もう嬉しいの一言で、涙が止まりませんでしたね。
松岡:素敵な涙ですね。本当におめでとうございます!
これでスピードスケート選手団のインタビューを締めくくろうとした瞬間、松岡さんが再び小平選手にマイクを向けた。
松岡:小平選手、最後にもう少しだけ質問させてください。今回主将としても相当プレッシャーがあったと思うのですが、ご自身も含めて、これだけスピードスケートの選手たちが活躍しました。メダルラッシュの一番の要因は何だと思います?
小平:私は主将ではあるんですけれども、選手それぞれが自分たちが主役というつもりで臨んでくれたのが一番よかったんだと思います。
松岡:それと、世界中で韓国選手との抱擁のシーンがたくさん流れていました。一番のライバルであり、一番の親友である選手と、国は違えど想いを共有できた。僕はあれがスポーツだなと思います。小平選手自身は、あのシーンを通じて何を伝えたかったのでしょう。
小平:やはりスポーツは言葉のいらないコミュニケーションだと思うので、お互いを高め合って、尊重し合い、成長していくのがスポーツなんだと。それが世界中に伝えられたらいいなと思いました。
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メダルを取るどころか、入賞もわずかに4だった2014年ソチ五輪から大躍進を遂げた。
なぜ、4年間で日本のスピードスケート界はここまで飛躍したのだろうか。
その大きな要因は、2014年夏に日本スケート連盟が所属先の垣根を越え、年間を通じて活動するナショナルチームを設立したところにある。
小平奈緒選手はソチ五輪後の2シーズンはオランダに留学したが、その他の日本のトップ選手を集め、4年後の平昌五輪へ向けて強化を図った。
ただ日本代表クラスの選手を集めて練習しただけではない。
スピードスケート大国オランダ出身のヨハン・デビットをコーチとして招き、選手の練習メニューや体調を全て管理。
さらに、血液検査や体力数値を基にした効率的なトレーニングを取り入れることで、ソチ五輪で代表落ちした高木美帆選手や、姉の高木菜那選手らを急成長させることに成功した。
コーチとしての手腕が評価され、同コーチは平昌五輪後に契約を更新。今後も日本代表を躍進に導いた“オランダ流の指導体制”を継続していく。
選手団でインタビューのはじめに呼ばれたのは、スピードスケート女子の500mで史上初の金メダル、1000mで銀メダルに輝いた小平奈緒選手。
冬季五輪で日本選手団の主将を任された選手は「金メダルを取れない」と言われてきたが、得意の500mを五輪新記録でゴールし、そのジンクスを見事に打ち破った。
そんな選手としても主将としても日本チームを牽引してきた小平選手に、日本代表の応援団長・松岡修造さんが今大会の想いを問うと、明るい笑顔で一言ずつ答えていった。
松岡:僕も現地で見ていましたが、小平さんが発する言葉は世界中に伝わってきましたよ。一番この五輪で感じたことって何だったんですか?
小平:やはり、世界の輪とか、応援してくださる皆さんとの繋がりを感じました。
松岡:特に500mで「心の底から自分を信じることができた」ことが、僕は一番嬉しかったんです。そういう大事な場面で信じることができましたが、そこには何が見えたんでしょう。
小平:皆さんの笑顔が見れましたね。
松岡:素敵ですね。壮行会の時に、僕らで「届け、勇気!」って言った時に、小平さんは「勇気をもらえました」と話していましたが、その勇気は競技を通してどういった形で出てきましたか?
小平:私にとって勇気というのは、覚悟することなんです。なので、皆さんに勇気をもらえたことで、試合で覚悟を決めることができました。ありがとうございます。
続いて呼ばれたのは、1000mで銅メダル、1500mで銀メダル、パシュート(女子団体追い抜き)で金メダルを獲得した高木美帆選手。
女子個人種目で初の複数メダルを手にし、同時に一大会での「メダル全色コンプリート」を達成。これは冬季五輪の日本勢としては初の快挙となった。
振り返ると、初めて五輪に出場したのは、15歳の“スーパー中学生”として立った2010年バンクーバー五輪。本番では1500mで23位、1000mでは完走した35選手中最下位という成績だった。
その4年後、借りを返したいと思い挑んだソチ五輪の選考会。だが、夢の舞台に戻ることすら叶わなかった。
「8年前や4年前の悔しさは、五輪の結果でしか晴らせない」
五輪という舞台で勝つ自分だけをイメージして、どんな厳しいメニューにも耐えてきた。
そして今大会、悲願のメダルを手にし、この8年間が間違っていなかったことを証明して見せた。
ここまでの想いを聞くと、喜びを噛み締めながらも、エースらしく淡々と話していった。
松岡:美帆さんは、「勝負」とか「勝ちたい」とかあまり言わない方なんですが、今回は本当に勝負できた大会だったと思います。今振り返って、この五輪はどうでした?
高木美:本当に最後まで足掻き続けることができた大会だったなと思います。
松岡:足掻いたということは、苦しんだ部分があったのでしょうか?
高木美:そうですね。まず3000mで5位になった時に、滑りの感覚がイマイチしっくりこなかったんです。それで、次の1500mに向けて気持ちを切り替えるという中でも、最後まで「どうしたらいいか」というのを考え続けました。ただ、考えすぎて1500mが終わった後には心身ともに疲弊し切っていたんです。ですが、1000mに挑むにあたって「もう一回頑張りたい」という風に、皆さんのメッセージを聞いて思い、もう一回立ち向かおうと気持ちを入れ直しましたね。最後のチームパシュートは、やはり一番取りたいメダルだったので、ずっとみんなで「どうしたらいいか」というのを考えながら臨みました。なので終始、体や心を整えるという部分で、ずっと足掻き続けられたかなと思います。
松岡:美帆さんにとって五輪って、今大会に出るまでは嫌な思い出が多かったと思います。でも今はどうですか?
高木美:楽しかったって一言で言うには、辛いことも多かったかなとは思います。それでも、こうやって皆さんの笑顔もたくさん見れましたし、自分でも出し切ったなって思えるので、とても幸せな大会になったと思いますね。
日本のファンにとって「幸せ」という言葉は、8年間苦しみ続けた彼女から最も聞きたかった言葉だったのではないだろうか。
まだ4年後の北京五輪に出場することは決めかねているが、現役続行する意向は明かしている。
この8年間の努力と、今大会で達成した女子初の快挙を信じ、ここから先は新たな道を切り開いていく。
続いてマイクを握ったのは、高木美帆選手の姉・高木菜那選手。
パシュートに加えて、新種目のマススタートでも優勝し、日本女子として冬季五輪で初めて一大会2個の金メダルを獲得した。
「天才少女」と呼ばれていた妹に対し、“美帆の姉”と呼ばれてきた高木菜那選手。
それだけに、金メダル2つというお姉ちゃんが成し遂げた偉業は日本中の涙を誘った。
誰も味わうことができなかった2つの金メダルについて聞かれると、高木菜那選手らしく終始笑顔で答えていった。
松岡:いや、失礼なこと言いますよ?皆さん、菜那の快挙は今大会で一番びっくりしたでしょ!?夏も含めて、女性が金メダル2つ取ったのは初めてなんですよ。本当におめでとう!
高木菜:ありがとうございます!
松岡:史上初のことを、お姉さんやってのけました。今の感想をお聞かせください。
高木菜:正直まだ実感ないんですけど、新種目のマススタートで金メダルを取れたことは本当に嬉しく思います。
松岡:マススタートで最後に抜く時、どんなことを考えていたんですか?
高木菜:抜く前は「いくぞ、いくぞ、いくぞ〜!」って思ってたので、本当に前に出れてよかったです(笑)
松岡:でも我慢するの大変だったでしょ!?
高木菜:いつ出ようかっていうのを自分でも考えながら、待って、待って、待ったことが良かったかなと。
松岡:その金メダルもずっと待ってたはずです。実際、金メダルを2つ持ってみると、どんなことを想うんですか?
高木菜:本当に嬉しいですね。それにこうやって多くの方が応援してくれて、今日もこうやって歓迎してくれてるので、そのたくさんの想いが募った金メダルだなぁと思います。
松岡:練習中の時は膝を気にされていたし、相当痛かった中で試合に臨んだと思うんですよ。その勇気と力はどこからやってきたんですか?
高木菜:結団式の時からみんなに勇気を届けてもらって、それが今回自分の力になって試合に臨めたんです。本当にたくさんの人が応援してくれたからこその金メダルだと思います。ありがとうございました!
そして4人目に登場したのが、パシュートのメンバーとして金メダルを獲得した、チーム最年少の佐藤綾乃選手。
新種目となったマススタートでは、一回戦でカナダ選手の転倒に巻き込まれる形で自らも転倒。決勝進出の条件となる上位8人に残ることができず、涙を流した。
しかし、パシュートの決勝では高木姉妹とともに出場し、息の合ったスケーティングでチームを勝利に導いた。
松岡:パシュートのメンバーとして、最後まで見事に乗り切ったと思うんです。あの決勝を振り返って、いかがですか?
佐藤:本当に決勝の前はものすごく緊張していて、五輪ならではの緊張感を味わうことができました。その中でも、一緒に戦ってきた先輩たちがいましたし、たくさんの方々の応援があったからこそ、その緊張を乗り越えることができたんだと思います。
松岡:なるほど。初めての五輪はどんな舞台で、どんな景色でした?
佐藤:今思うことは、すごくいい経験や学びを得ることができて、たくさん吸収することができた大会でした。初めての五輪は一言で言うと、「すごくいい経験ができた」。それに尽きると思います。
そして、最後のインタビューに登場したのは、同じくパシュートで金メダルを手にした菊池彩花選手。
最年長としてチームを支え、準決勝では佐藤選手に代わって高木姉妹を“休ませる滑り”に徹した。
足の大けがを乗り越えて五輪に臨んだ菊池選手。「みんなの活躍が刺激になってここに立つことができた」と仲間への思いをかみしめながら、インタビューに応えていった。
松岡:菊池選手は、パシュートで「私が盾になる」って言ってたじゃないですか。準決勝で出場した時は、どんな想いで滑っていたのですか?
菊池:私にできることは本当にそれぐらいしかなかったので、とにかく2人(高木姉妹)の足をできるだけ休ませて、決勝でしっかり滑ってもらえるようにと思って滑りました。
松岡:気持ちを一つにして戦ったからこその金メダルですね。ここに来るまでの4年間、どういう想いだったのでしょう?
菊池:もう一日一日というか、一瞬一瞬というか、本当に全てが詰まった4年間だったので、金メダルを取った時はこう…グッときましたね。
松岡:実際にメダルを手にした瞬間はどんな想いだったんですか?
菊池:もう嬉しいの一言で、涙が止まりませんでしたね。
松岡:素敵な涙ですね。本当におめでとうございます!
これでスピードスケート選手団のインタビューを締めくくろうとした瞬間、松岡さんが再び小平選手にマイクを向けた。
松岡:小平選手、最後にもう少しだけ質問させてください。今回主将としても相当プレッシャーがあったと思うのですが、ご自身も含めて、これだけスピードスケートの選手たちが活躍しました。メダルラッシュの一番の要因は何だと思います?
小平:私は主将ではあるんですけれども、選手それぞれが自分たちが主役というつもりで臨んでくれたのが一番よかったんだと思います。
松岡:それと、世界中で韓国選手との抱擁のシーンがたくさん流れていました。一番のライバルであり、一番の親友である選手と、国は違えど想いを共有できた。僕はあれがスポーツだなと思います。小平選手自身は、あのシーンを通じて何を伝えたかったのでしょう。
小平:やはりスポーツは言葉のいらないコミュニケーションだと思うので、お互いを高め合って、尊重し合い、成長していくのがスポーツなんだと。それが世界中に伝えられたらいいなと思いました。
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