運動研究所 代表理事 宮島さんインタビュー前編 『子供ってスポーツ界にとって大事な資源』
『笑顔があふれる「スポーツのある生活」を』をコンセプトに2017年7月に設立された一般社団法人運動研究所。代表理事の宮島淑行さんは大手広告代理店で2002年FIFAワールドカップなど数々のイベントに携わり、同時に競技団体のマーケティングスキームの整備により、それぞれの収入向上に貢献。 そんな宮島さんが安泰を捨ててまで運動研究所を設立した背景とは?スポーツとの出会いから、子どもたちを取り巻く日本のスポーツ環境に迫った。
井本佳孝
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2018/04/25
――宮島さんのスポーツとの出会いからお聞きしたいです。
宮島:本当の出会いは小学校で「課外クラブ」っていう対外試合もやる、特別サッカー部の募集がありました。それまで全然スポーツや運動に興味はなかったんですけど、これやってみたいなって思って。「これやる!」って言ったら、周りもびっくりするだろうなっていう、それからですね。
――それから、中学校、高校、大学とサッカー一筋だったんですか?
宮島:そうですね。社会人になって10年目くらいまでは結構本気でやっていました。けれど、スキルは伴わなかったので、ほとんどレギュラーとは無縁な、ただ、サッカーが好きだっていう、そういうプレイヤーでしたね。
――当時の、ご自身の中でのアイドル的な選手はいましたか?また、思い出深い選手はいますか?
宮島:僕が好きだったのは、ケビン・キーガンっていう選手、「マイティ・マウス」って言われた中盤のダイナモで、ガーっと走る選手でした。けれど、決してスキルが低いわけでもなく、よく点も取っていたし、イングランド代表の中心の選手でもありました。
小さいですけれど、そういう選手がイングランド代表の中心でやっているのは凄いなぁって思いましたね。
――そうすると、ご自身のプレースタイルは、今で言うボランチみたいな感じでしたか?
宮島:いや、点が取りたかったから、学生時代はずっとフォワードをやっていました。
けれど、足の速い奴やシュート力のある奴がいたので、レギュラーは獲れなくて途中で怪我もしてしまいました。順風満帆とはとても言い難いプレイヤー人生でした。
――そこから社会人になり、スポーツの仕事をやられてたんですよね?
宮島:そうですね。でも、僕がスポーツをやり始めるには、(会社に)入社してから8年かかり、それまではメディアの担当や、スポンサー企業の営業担当をやっていました。
でも、2002年(日韓ワールドカップ)があるから、「どうしてもサッカーの仕事をやりたいんです!」って上の人に話したら、「こいつこれだけスポーツやりたいって言ってるんだから、やらしてやろう!」って社内で動いてくれて。サッカーの部署には行けなかったんですけど、スポーツ担当部署が拾ってくれました。
――トータルでスポーツは何年ぐらいやられてたんですか?
宮島:スポーツは2000年から2016年まで担当したんですけど、中抜けがありました。その頃は直接担当ではないですが、現場に行って顔出したりとかはありましたね。
――そこから、今回のこのプロジェクトに行くまでの話をお聞きしたいです。
宮島:会社にいて「2020年まではスポーツを担当できるんだろうなぁ」と思っていました。けれど、その先はどうなるか分からない、昇格も含めて自分がこの会社でどうなっていくかっていう気持ちもありました。
あとは、「ちょっとエリートスポーツに周りの目が向きすぎているんじゃない?」っていう怖さと言うか、「勝ちゃ何でもありだろ」みたいなものは感じていました。
スポンサーとかは目立つところに協賛するのは当然だからいいんだけど、トップ選手だけでなく、子供も勝たなきゃならない。指導者も勝たせなきゃいけないから殴って指導してとか、そういうのはどうなのかなと。
子供とスポーツの関係っていうのをちゃんとしてあげないと、これから少子化に向かいますよね。子供ってスポーツ界にとって大事な大事な資源なのに、今の日本スポーツの子供の育て方って、100%そうとは言いませんが、結構使い捨てでとりあえず人を集めるだけ集めて、その中で使えそうな奴だけ鍛えて、残りはどうなってもいいやっていう。
――特に、強豪校はそういうのありますよね?
宮島:ある程度高校とか大学まで行ったら、そういう風に段々シフトしていくのも理解できるのですが、小学校のうちからやる必要があるのかとか、もっと言うと、小学校から全国大会ってやる必要あるのかなとも思います。
小学生のうちから野球だったら肘が痛くて、手術受けなきゃいけないケースもあります。メジャーリーガーもよく受けるトミージョン手術っていうやつですね。
――ご自身のコラムでも書かれてましたよね?
宮島:そういうのって正直どうなんだろうって。もっと言うと、そういう子たちに逃げ道を作ってあげる、そうすることによって他のスポーツに移れるっていう事例をもっともっと増やさないとまずいだろうって。
VOL.2に続く。
<インフォメーション>
スポーツプラザエルニーニョ 成城の詳しい情報は!http://undoken.jp/
宮島:本当の出会いは小学校で「課外クラブ」っていう対外試合もやる、特別サッカー部の募集がありました。それまで全然スポーツや運動に興味はなかったんですけど、これやってみたいなって思って。「これやる!」って言ったら、周りもびっくりするだろうなっていう、それからですね。
――それから、中学校、高校、大学とサッカー一筋だったんですか?
宮島:そうですね。社会人になって10年目くらいまでは結構本気でやっていました。けれど、スキルは伴わなかったので、ほとんどレギュラーとは無縁な、ただ、サッカーが好きだっていう、そういうプレイヤーでしたね。
――当時の、ご自身の中でのアイドル的な選手はいましたか?また、思い出深い選手はいますか?
宮島:僕が好きだったのは、ケビン・キーガンっていう選手、「マイティ・マウス」って言われた中盤のダイナモで、ガーっと走る選手でした。けれど、決してスキルが低いわけでもなく、よく点も取っていたし、イングランド代表の中心の選手でもありました。
小さいですけれど、そういう選手がイングランド代表の中心でやっているのは凄いなぁって思いましたね。
――そうすると、ご自身のプレースタイルは、今で言うボランチみたいな感じでしたか?
宮島:いや、点が取りたかったから、学生時代はずっとフォワードをやっていました。
けれど、足の速い奴やシュート力のある奴がいたので、レギュラーは獲れなくて途中で怪我もしてしまいました。順風満帆とはとても言い難いプレイヤー人生でした。
――そこから社会人になり、スポーツの仕事をやられてたんですよね?
宮島:そうですね。でも、僕がスポーツをやり始めるには、(会社に)入社してから8年かかり、それまではメディアの担当や、スポンサー企業の営業担当をやっていました。
でも、2002年(日韓ワールドカップ)があるから、「どうしてもサッカーの仕事をやりたいんです!」って上の人に話したら、「こいつこれだけスポーツやりたいって言ってるんだから、やらしてやろう!」って社内で動いてくれて。サッカーの部署には行けなかったんですけど、スポーツ担当部署が拾ってくれました。
――トータルでスポーツは何年ぐらいやられてたんですか?
宮島:スポーツは2000年から2016年まで担当したんですけど、中抜けがありました。その頃は直接担当ではないですが、現場に行って顔出したりとかはありましたね。
――そこから、今回のこのプロジェクトに行くまでの話をお聞きしたいです。
宮島:会社にいて「2020年まではスポーツを担当できるんだろうなぁ」と思っていました。けれど、その先はどうなるか分からない、昇格も含めて自分がこの会社でどうなっていくかっていう気持ちもありました。
あとは、「ちょっとエリートスポーツに周りの目が向きすぎているんじゃない?」っていう怖さと言うか、「勝ちゃ何でもありだろ」みたいなものは感じていました。
スポンサーとかは目立つところに協賛するのは当然だからいいんだけど、トップ選手だけでなく、子供も勝たなきゃならない。指導者も勝たせなきゃいけないから殴って指導してとか、そういうのはどうなのかなと。
子供とスポーツの関係っていうのをちゃんとしてあげないと、これから少子化に向かいますよね。子供ってスポーツ界にとって大事な大事な資源なのに、今の日本スポーツの子供の育て方って、100%そうとは言いませんが、結構使い捨てでとりあえず人を集めるだけ集めて、その中で使えそうな奴だけ鍛えて、残りはどうなってもいいやっていう。
――特に、強豪校はそういうのありますよね?
宮島:ある程度高校とか大学まで行ったら、そういう風に段々シフトしていくのも理解できるのですが、小学校のうちからやる必要があるのかとか、もっと言うと、小学校から全国大会ってやる必要あるのかなとも思います。
小学生のうちから野球だったら肘が痛くて、手術受けなきゃいけないケースもあります。メジャーリーガーもよく受けるトミージョン手術っていうやつですね。
――ご自身のコラムでも書かれてましたよね?
宮島:そういうのって正直どうなんだろうって。もっと言うと、そういう子たちに逃げ道を作ってあげる、そうすることによって他のスポーツに移れるっていう事例をもっともっと増やさないとまずいだろうって。
VOL.2に続く。
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