レスターで10番を背負い、現在はベルギーで戦う19歳 古賀俊太郎(ウニオン・サン・ジロワ)インタビュー 「Vol.2 チェルシーやアーセナルと試合をしていたレスター時代 」
中学を卒業後にイングランドのレスターに入団し背番号10を付けて活躍した古賀俊太郎。その後にオランダ、ベルギーと渡り現在はベルギー2部のウニオン・サン・ジロワでプレー。まだ19歳ながら欧州を渡り歩いてきた男が語るこれまでの挑戦と今後の野望を聞いた。
菊池 康平
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2018/08/18
Vol.1はこちらから
―― 日本でいう高校生ということで、レスターユースの時は現地で学校などには通っていたんですか?
古賀 現地では、語学はやっていたんですけど、高校自体は日本の通信制でした。そこで高校卒業の資格を取ったので、現地では語学だけでした。
―― 親はレスターへ行く時に「思いっきりやってこい!」みたいな応援はしてくれましたか?
古賀 そうですね。止められはしなかったですね。やりたいことをやらせてくれる家庭環境だったので。行くって言ってからは、ずっと背中を押してくれています。
―― レスターに入ってからはどんなスパイクでやっていました?ヨーロッパではミックスソールでやる選手が多いですが。
古賀 僕はずっと固定式のスパイクでやっていました。今年から取り替えを履くようになったんですけど、去年までずっと固定でした。
自分ではあまり滑っている感覚はなかったんですけど、代理人や親が試合を見た時に「めちゃめちゃ滑っているね」って言われて。
その当時はずっと固定しか日本で履いてこなかったんで、食わず嫌いで。スパイクって長期で履かないとわからない部分ってあるじゃないですか。取り替えはこれまで履いてきていないんで嫌だったんです。
あとはオランダって人工芝のグラウンドが多いんですよ。上のチームはちゃんと天然芝が整備されているんですけど、以前に所属していたズヴォレ(オランダ)なんかは人工芝です。練習場とかも半分以上は人工芝なんで、その時はずっと固定でした。
今後やって行く上で、上に行けば行くほど、天然芝も増えるし、慣れておこうっていうのもあって取り替えを履いたりしています。取り換えというかミックスソールですね。
―― イングランドの話に戻りますが、レスターの1年間はどうでした?全体的にやれたって感じですか?
古賀 イニゴっていうスペイン人の監督(ダービーなどでプロでやっていた元選手)が結構使ってくれて、背番号も10番をもらいました。
ヴェルディの時はボランチをやっていて、レスターへ行ってからは10番で、繋ぐサッカーをやってくれたんで、やりやすかったです。
自分を中心として見てくれたんで、ラッキーでしたし、レスターの時は楽しかったですね。イングランドってアバウトなんで、特にユースになればなるほど、戦術とかもそんなにないんです。
日本みたいにコンパクトじゃないので、中盤もスペースが空くんですよ。
そういう意味では、ヴェルディとか、日本でやっていたときは狭く狭くだったんで、レスターではプレッシャーを全然感じることもなくやれたんで、自由にやらせてもらえました。
―― レスターのユースで10番を背負うって凄いことですよね。
古賀 でも周りの選手がどう思ってたかはわからないですけどね。その時は英語も喋れなかったので、どう思われているかとか全然わかりませんでした。
ただただ毎週、今週はチェルシーとやったとか、翌週はアーセナルだとか、その次はサウサンプトンだとか。それを楽しんでいた感じでした。
―― 順風満帆なスタートでしたよね。レスターからオランダのズヴォレに行った理由は?
古賀 ちょっと前くらいから、18歳以下の海外移籍が禁止などのルールとかちらほら出てきました。その時にレアルが罰則を受けたりして、クラブ側もナーバスになっていたというか、気にしだしていました。
エージェントももちろんその事実を知っていたので「これからどうしようか?」ということになりました。
その当時の監督だったり、レスターとも話して、イングランドの大学に行くなり、18歳までレスターの子会社みたいなアマチュアクラブで規定にひっかからないようにプレーする、という案が出ました。
そんな中、オランダに行く話が出てきたんです。オランダへ行ったらトップへの道も近くなるし、レスター側もそうしようということで。
レスターにいたかったですし、監督もどうにか残れる方法を探していたんですけれど、どうしようも出来ないことでした。
個人的にはネガティブな動きではなかったんですけど、イングランドからそのままオランダに向かいました。
Vol.3に続く
写真提供:古賀俊太郎
インタビュー写真:菊池康平
―― 日本でいう高校生ということで、レスターユースの時は現地で学校などには通っていたんですか?
古賀 現地では、語学はやっていたんですけど、高校自体は日本の通信制でした。そこで高校卒業の資格を取ったので、現地では語学だけでした。
―― 親はレスターへ行く時に「思いっきりやってこい!」みたいな応援はしてくれましたか?
古賀 そうですね。止められはしなかったですね。やりたいことをやらせてくれる家庭環境だったので。行くって言ってからは、ずっと背中を押してくれています。
―― レスターに入ってからはどんなスパイクでやっていました?ヨーロッパではミックスソールでやる選手が多いですが。
古賀 僕はずっと固定式のスパイクでやっていました。今年から取り替えを履くようになったんですけど、去年までずっと固定でした。
自分ではあまり滑っている感覚はなかったんですけど、代理人や親が試合を見た時に「めちゃめちゃ滑っているね」って言われて。
その当時はずっと固定しか日本で履いてこなかったんで、食わず嫌いで。スパイクって長期で履かないとわからない部分ってあるじゃないですか。取り替えはこれまで履いてきていないんで嫌だったんです。
あとはオランダって人工芝のグラウンドが多いんですよ。上のチームはちゃんと天然芝が整備されているんですけど、以前に所属していたズヴォレ(オランダ)なんかは人工芝です。練習場とかも半分以上は人工芝なんで、その時はずっと固定でした。
今後やって行く上で、上に行けば行くほど、天然芝も増えるし、慣れておこうっていうのもあって取り替えを履いたりしています。取り換えというかミックスソールですね。
―― イングランドの話に戻りますが、レスターの1年間はどうでした?全体的にやれたって感じですか?
古賀 イニゴっていうスペイン人の監督(ダービーなどでプロでやっていた元選手)が結構使ってくれて、背番号も10番をもらいました。
ヴェルディの時はボランチをやっていて、レスターへ行ってからは10番で、繋ぐサッカーをやってくれたんで、やりやすかったです。
自分を中心として見てくれたんで、ラッキーでしたし、レスターの時は楽しかったですね。イングランドってアバウトなんで、特にユースになればなるほど、戦術とかもそんなにないんです。
日本みたいにコンパクトじゃないので、中盤もスペースが空くんですよ。
そういう意味では、ヴェルディとか、日本でやっていたときは狭く狭くだったんで、レスターではプレッシャーを全然感じることもなくやれたんで、自由にやらせてもらえました。
―― レスターのユースで10番を背負うって凄いことですよね。
古賀 でも周りの選手がどう思ってたかはわからないですけどね。その時は英語も喋れなかったので、どう思われているかとか全然わかりませんでした。
ただただ毎週、今週はチェルシーとやったとか、翌週はアーセナルだとか、その次はサウサンプトンだとか。それを楽しんでいた感じでした。
―― 順風満帆なスタートでしたよね。レスターからオランダのズヴォレに行った理由は?
古賀 ちょっと前くらいから、18歳以下の海外移籍が禁止などのルールとかちらほら出てきました。その時にレアルが罰則を受けたりして、クラブ側もナーバスになっていたというか、気にしだしていました。
エージェントももちろんその事実を知っていたので「これからどうしようか?」ということになりました。
その当時の監督だったり、レスターとも話して、イングランドの大学に行くなり、18歳までレスターの子会社みたいなアマチュアクラブで規定にひっかからないようにプレーする、という案が出ました。
そんな中、オランダに行く話が出てきたんです。オランダへ行ったらトップへの道も近くなるし、レスター側もそうしようということで。
レスターにいたかったですし、監督もどうにか残れる方法を探していたんですけれど、どうしようも出来ないことでした。
個人的にはネガティブな動きではなかったんですけど、イングランドからそのままオランダに向かいました。
Vol.3に続く
写真提供:古賀俊太郎
インタビュー写真:菊池康平