森本稀哲氏と米野智人氏がトークショーを開催「パフォーマンス」など現役時代の想い出を語る
元プロ野球選手の森本稀哲さんと米野智人さんのトークショーが、WACCA池袋で開催された。イベントMCを担当された米野さんが「笑顔で帰れるトークショーにしたい」という意向もあって実現した今回のイベント。お二人が一緒にプレーされた埼玉西武ライオンズでの2年間を始め、選手時代のエピソードや、最近ではYouTubeの番組を開設するなどの森本さんの現在の日々などが語られた。
白鳥 純一
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2020/02/12
開催場所:WACCA池袋もうひとつのdaidokoro
主催:株式会社IforC
森本稀哲さんプロフィール
1981年1月31日生 東京都出身 帝京高校在学中、第80回全国高校野球選手権大会に出場。1999年ドラフト4位で日本ハムファイターズに入団。2011年横浜ベイスターズ(現横浜DeNAベイスターズ)移籍。2014年埼玉西武ライオンズへテスト入団し、2015年引退。
米野智人さんプロフィール
1982年1月21日生 北海道札幌市出身北照高等学校卒業後、1999年ドラフト3位でヤクルトスワローズに入団。2010年に埼玉西武ライオンズに移籍、2016年に北海道日本ハムファイターズで選手権コーチ補佐として入団、同年引退。2017年に東京・下北沢にNATURAL KITCHEN inning+(イニングプラス)を開業。
米野:森本さんといえば、現役時代のさまざまな「パフォーマンス」です。あれは、事前に打ち合わせをされていたのでしょうか?
森本:サプライズでやりました。事前に伝えると球団に怒られるんです。最初に戦隊モノの被り物でシートノックをやったときは、厳しく注意されましたし。
米野:ファンは喜ぶじゃないですか?結構やりましたよね。
森本:カエルとか色々やりましたね。あまりにも変装する回数が多くなっていったので、球団からの注意も「一応わかっていると思うけど、ユニフォームを着てくれるかな?」みたいな感じで、徐々にゆるくなってきて(笑)。そういえば、実は僕、904本しかヒットを打ってないんです。
米野:いやいや、十分実績を残しているじゃないですか?(笑)
森本:この間、名球会(2000本安打以上)にも入られている谷繁さんや、和田一浩さんとお話させていただいたときにも、「それだけしか打ってないの?」って言われて(笑)。
米野:やめてくださいよ、(森本さんの実績も)十分ですよ。
森本:「皆さんのイメージと残した実績のギャップは何か?」を自分なりに考えたところ、パフォーマンスと、北海道日本ハムファイターズが日本一になった時にレギュラーだったという知名度がその理由だと気づきました。
904本しかヒットを打てていませんが、ファンサービスと、「知名度」が第二の人生では大事。当時は「ノリ」でやりましたが、今振り返ると、とんでもないことをしていたんだなと思います。
米野:トークショーの前に、あらためて森本さんのプロフィールを見たんですけど、2008年を皮切りに、毎年のように骨折していますよね?
森本: デッドボールで骨折は多かったですね。インコースのボールも「逃げたら負けかな?」と思うタイプだったので、内角に来ることがわかっていて、当たりにいくこともありました。
(米野は)キャッチャーとして、サイン出している方じゃない? 選手生活最後の2年間は、埼玉西武ライオンズで一緒にプレーしていましたけど、昔2軍で対戦したときは、いつも感じ悪かったよな?(笑) 僕が打席に入ったとき、米野がキャッチャーミット構えながら、いつも睨んでくるんですよ。
米野: 観察ですよ。わかります?生意気でした?(笑)
森本:プロ野球では後輩から挨拶するのが暗黙のルールなんですけど、挨拶も聞こえないうちから、打席でじーっと見てくるの。その時は、「何、見てんだよ!」と思っていました(笑)。
米野:森本さんは、僕の一つ上の先輩で、「松坂世代」のエンタメ担当で活躍されて…。
森本:もっと「野球ですごかった」とかはないの?(笑)まがいなりにも900安打くらいは打っているのに…。
米野:帝京高校のメンバーとして、甲子園で和田毅(現ソフトバンクホークス)投手から本塁打を打った時に、「すごい選手がいるな。森本さんみたいな人がプロに行くんだな」と思いました。
森本:20年以上前の話をいきなり言われても、わからない人もいると思うよ(苦笑)。僕らは「松坂世代」と言われていて、多くの有力選手が、プロでも活躍したんです。
僕は、プロ入り後はそれなりに知名度もありましたが、入団時は無名で、銀座あたりを裸で歩いていてもわからないくらいでした(笑)。今と比べると、ファイターズ自体の注目度も、そこまで高くなかったですし。
−−「松坂世代」の松坂大輔投手について
森本:高校の頃は「松坂には負けない」という想いでやっていました。僕が日本ハムの二軍にいる時、一軍選手を相手に鮮烈デビューを飾ってね。悔しい気持ちはありました。
でも、30歳くらいから、同級生の選手に対して、「一緒に頑張ろう!」という気持ちに変わりましたね。松坂投手はストレートのキレをどこまで戻せるかが、復活の鍵になるでしょう。
僕のYou Tubeでも今年のキャンプの様子を伝えていくので、期待していてください。
−−お二人の仲が深まったのは、森本さんがライオンズでプレーした2年間だったとのこと。ライオンズでの想い出を語っていただいた。
米野:2014年シーズンに森本さんが来てくれて、本当にチームが変わりました。当時のライオンズは、どちらかというと低迷期でしたが、ベテランと若手がうまく融合して、良い循環を生み出していたように思います。
森本:秋季キャンプのテスト生として、ライオンズの練習に参加しました。その時に米野と中村剛也が優しく話しかけてくれて…。あの年は、伊原監督がシーズン途中で解任されたり、すごく苦しい年でしたね。
米野:たしかに、「暗黒」と言われてもおかしくないような時期でしたね。
森本:実は、「ライオンズ」の野球にずっと興味がありました。伝統がある強豪チームというのはもちろん、緻密さと豪快さが両方あるイメージだったので…。
入団してから思ったのは、コーチが若い選手の打撃フォームを変えたりせず、そのまま自由に打たせる傾向があるなと。だから良い打者が出てくる。
米野:若手がのびのびとバットを振っているイメージはありますね。
森本:森友哉なんて、俺らの時代だったら、「何だ?その足の上げ方は?」とか言われる典型的なタイプ。
栗山、中村といったチームリーダーが、厳しく接していて、それが下の世代に継承されているのが強さの理由かなと感じました。
ーー森本さんは、埼玉西武ライオンズでプレーする前には、FA権を行使して移籍した横浜DeNAベイスターズで、3年間プレー。当時の想い出を語った。
森本:今だから言いますけど、横浜DeNAベイスターズの関係者やファンの皆さんには、申し訳ない気持ちです。三浦(大輔)さんには、「ピークは入団会見だったね」とか言われましたしね(苦笑)。
米野:入団発表は、中華街でのラーメンマンの仮装でしたものね。あれはインパクトがありました。新しい風を吹き込みましたよね?
森本:その年の横浜は年間90敗の低迷期にも関わらず、なかなか個人としての結果を出せず…。苦しみ、迷惑もかけたし。野球人生としては悔しい三年間でしたけど、人間としては成長できた時期でもありました。
良いときより、うまく行かない時に学べることのほうが多いと思うので。これまでにプレーさせていただいた球団には、これからも恩返ししていきたいなと思っています。
米野:僕もそうでした。挫折や失敗はあるので。(森本さんの意見は)深みがありますよね。
森本:そのまま。もっと続けて、続けて(笑)。
イベントの最後には、ファンからの質問にも回答した。
ーー森本さんは緊張した試合とかはありますか?
森本:2回あります。まずはプロ初出場ですね。プロ入り2年目のシーズン、2000年のことでした。
当時所属していた日本ハムファイターズは、前半戦を首位でターンしたんですが、「控え選手に元気がない」ということで声が掛かりました。
遊撃手として入団したのですが、このシーズンからコンバートされて、そのまま外野手になりました。
初出場は、西武ライオンズとの同点の延長戦で、守備固めでした。緊張しすぎて、別方向に飛んだ打球なのに、ボールを見失って猛チャージ。恥ずかしかったです(苦笑)。
あとは、2006年の日本シリーズ初戦ですね。斉藤和巳さんがマウンドで崩れた試合の後だったので、「パ・リーグの代表としてしっかりプレーしないといけない」と思いました。4回くらいまでは足が震えていましたね。
−−森本さんの今後の活動について。
森本:今年はこれまでの解説、テレビ、講演に加えて、You Tubeも頑張っていこうと思います。
スタジアムの観客動員数は増えていますが、野球人口自体は減っていて、危機感もあります。野球以外にも体操とかも取り入れていく予定なので、みんなで健康になりましょう。
米野:僕は北海道出身なのですが、地元に戻ると森本さんがテレビに出まくっていて、活躍している印象です。
You Tubeも見ましたが、森本さんは、軟式のボールを打つのがうまいんですよ。草野球をやっている方はぜひみてほしいです。
取材協力・写真:株式会社IforC
・著書:『気にしない。どんな逆境にも負けない心を強くする習慣』森本稀哲著(1400円+税)発行:ダイヤモンド社
・森本稀哲さんYouTube番組「ひちょりズム」
・米野智人さんが経営されるNATURAL KITCHEN inning+
(ナチュラルキッチンイニングプラス)
主催:株式会社IforC
森本稀哲さんプロフィール
1981年1月31日生 東京都出身 帝京高校在学中、第80回全国高校野球選手権大会に出場。1999年ドラフト4位で日本ハムファイターズに入団。2011年横浜ベイスターズ(現横浜DeNAベイスターズ)移籍。2014年埼玉西武ライオンズへテスト入団し、2015年引退。
米野智人さんプロフィール
1982年1月21日生 北海道札幌市出身北照高等学校卒業後、1999年ドラフト3位でヤクルトスワローズに入団。2010年に埼玉西武ライオンズに移籍、2016年に北海道日本ハムファイターズで選手権コーチ補佐として入団、同年引退。2017年に東京・下北沢にNATURAL KITCHEN inning+(イニングプラス)を開業。
米野:森本さんといえば、現役時代のさまざまな「パフォーマンス」です。あれは、事前に打ち合わせをされていたのでしょうか?
森本:サプライズでやりました。事前に伝えると球団に怒られるんです。最初に戦隊モノの被り物でシートノックをやったときは、厳しく注意されましたし。
米野:ファンは喜ぶじゃないですか?結構やりましたよね。
森本:カエルとか色々やりましたね。あまりにも変装する回数が多くなっていったので、球団からの注意も「一応わかっていると思うけど、ユニフォームを着てくれるかな?」みたいな感じで、徐々にゆるくなってきて(笑)。そういえば、実は僕、904本しかヒットを打ってないんです。
米野:いやいや、十分実績を残しているじゃないですか?(笑)
森本:この間、名球会(2000本安打以上)にも入られている谷繁さんや、和田一浩さんとお話させていただいたときにも、「それだけしか打ってないの?」って言われて(笑)。
米野:やめてくださいよ、(森本さんの実績も)十分ですよ。
森本:「皆さんのイメージと残した実績のギャップは何か?」を自分なりに考えたところ、パフォーマンスと、北海道日本ハムファイターズが日本一になった時にレギュラーだったという知名度がその理由だと気づきました。
904本しかヒットを打てていませんが、ファンサービスと、「知名度」が第二の人生では大事。当時は「ノリ」でやりましたが、今振り返ると、とんでもないことをしていたんだなと思います。
米野:トークショーの前に、あらためて森本さんのプロフィールを見たんですけど、2008年を皮切りに、毎年のように骨折していますよね?
森本: デッドボールで骨折は多かったですね。インコースのボールも「逃げたら負けかな?」と思うタイプだったので、内角に来ることがわかっていて、当たりにいくこともありました。
(米野は)キャッチャーとして、サイン出している方じゃない? 選手生活最後の2年間は、埼玉西武ライオンズで一緒にプレーしていましたけど、昔2軍で対戦したときは、いつも感じ悪かったよな?(笑) 僕が打席に入ったとき、米野がキャッチャーミット構えながら、いつも睨んでくるんですよ。
米野: 観察ですよ。わかります?生意気でした?(笑)
森本:プロ野球では後輩から挨拶するのが暗黙のルールなんですけど、挨拶も聞こえないうちから、打席でじーっと見てくるの。その時は、「何、見てんだよ!」と思っていました(笑)。
米野:森本さんは、僕の一つ上の先輩で、「松坂世代」のエンタメ担当で活躍されて…。
森本:もっと「野球ですごかった」とかはないの?(笑)まがいなりにも900安打くらいは打っているのに…。
米野:帝京高校のメンバーとして、甲子園で和田毅(現ソフトバンクホークス)投手から本塁打を打った時に、「すごい選手がいるな。森本さんみたいな人がプロに行くんだな」と思いました。
森本:20年以上前の話をいきなり言われても、わからない人もいると思うよ(苦笑)。僕らは「松坂世代」と言われていて、多くの有力選手が、プロでも活躍したんです。
僕は、プロ入り後はそれなりに知名度もありましたが、入団時は無名で、銀座あたりを裸で歩いていてもわからないくらいでした(笑)。今と比べると、ファイターズ自体の注目度も、そこまで高くなかったですし。
−−「松坂世代」の松坂大輔投手について
森本:高校の頃は「松坂には負けない」という想いでやっていました。僕が日本ハムの二軍にいる時、一軍選手を相手に鮮烈デビューを飾ってね。悔しい気持ちはありました。
でも、30歳くらいから、同級生の選手に対して、「一緒に頑張ろう!」という気持ちに変わりましたね。松坂投手はストレートのキレをどこまで戻せるかが、復活の鍵になるでしょう。
僕のYou Tubeでも今年のキャンプの様子を伝えていくので、期待していてください。
−−お二人の仲が深まったのは、森本さんがライオンズでプレーした2年間だったとのこと。ライオンズでの想い出を語っていただいた。
米野:2014年シーズンに森本さんが来てくれて、本当にチームが変わりました。当時のライオンズは、どちらかというと低迷期でしたが、ベテランと若手がうまく融合して、良い循環を生み出していたように思います。
森本:秋季キャンプのテスト生として、ライオンズの練習に参加しました。その時に米野と中村剛也が優しく話しかけてくれて…。あの年は、伊原監督がシーズン途中で解任されたり、すごく苦しい年でしたね。
米野:たしかに、「暗黒」と言われてもおかしくないような時期でしたね。
森本:実は、「ライオンズ」の野球にずっと興味がありました。伝統がある強豪チームというのはもちろん、緻密さと豪快さが両方あるイメージだったので…。
入団してから思ったのは、コーチが若い選手の打撃フォームを変えたりせず、そのまま自由に打たせる傾向があるなと。だから良い打者が出てくる。
米野:若手がのびのびとバットを振っているイメージはありますね。
森本:森友哉なんて、俺らの時代だったら、「何だ?その足の上げ方は?」とか言われる典型的なタイプ。
栗山、中村といったチームリーダーが、厳しく接していて、それが下の世代に継承されているのが強さの理由かなと感じました。
ーー森本さんは、埼玉西武ライオンズでプレーする前には、FA権を行使して移籍した横浜DeNAベイスターズで、3年間プレー。当時の想い出を語った。
森本:今だから言いますけど、横浜DeNAベイスターズの関係者やファンの皆さんには、申し訳ない気持ちです。三浦(大輔)さんには、「ピークは入団会見だったね」とか言われましたしね(苦笑)。
米野:入団発表は、中華街でのラーメンマンの仮装でしたものね。あれはインパクトがありました。新しい風を吹き込みましたよね?
森本:その年の横浜は年間90敗の低迷期にも関わらず、なかなか個人としての結果を出せず…。苦しみ、迷惑もかけたし。野球人生としては悔しい三年間でしたけど、人間としては成長できた時期でもありました。
良いときより、うまく行かない時に学べることのほうが多いと思うので。これまでにプレーさせていただいた球団には、これからも恩返ししていきたいなと思っています。
米野:僕もそうでした。挫折や失敗はあるので。(森本さんの意見は)深みがありますよね。
森本:そのまま。もっと続けて、続けて(笑)。
イベントの最後には、ファンからの質問にも回答した。
ーー森本さんは緊張した試合とかはありますか?
森本:2回あります。まずはプロ初出場ですね。プロ入り2年目のシーズン、2000年のことでした。
当時所属していた日本ハムファイターズは、前半戦を首位でターンしたんですが、「控え選手に元気がない」ということで声が掛かりました。
遊撃手として入団したのですが、このシーズンからコンバートされて、そのまま外野手になりました。
初出場は、西武ライオンズとの同点の延長戦で、守備固めでした。緊張しすぎて、別方向に飛んだ打球なのに、ボールを見失って猛チャージ。恥ずかしかったです(苦笑)。
あとは、2006年の日本シリーズ初戦ですね。斉藤和巳さんがマウンドで崩れた試合の後だったので、「パ・リーグの代表としてしっかりプレーしないといけない」と思いました。4回くらいまでは足が震えていましたね。
−−森本さんの今後の活動について。
森本:今年はこれまでの解説、テレビ、講演に加えて、You Tubeも頑張っていこうと思います。
スタジアムの観客動員数は増えていますが、野球人口自体は減っていて、危機感もあります。野球以外にも体操とかも取り入れていく予定なので、みんなで健康になりましょう。
米野:僕は北海道出身なのですが、地元に戻ると森本さんがテレビに出まくっていて、活躍している印象です。
You Tubeも見ましたが、森本さんは、軟式のボールを打つのがうまいんですよ。草野球をやっている方はぜひみてほしいです。
取材協力・写真:株式会社IforC
・著書:『気にしない。どんな逆境にも負けない心を強くする習慣』森本稀哲著(1400円+税)発行:ダイヤモンド社
・森本稀哲さんYouTube番組「ひちょりズム」
・米野智人さんが経営されるNATURAL KITCHEN inning+
(ナチュラルキッチンイニングプラス)