フジテレビ勤務を経て、審判の道へ―“中野友加里”が切り開いた、新たなスケート人生
トリプルアクセルを跳ぶ選手として戦い抜いた競技人生。スケートだけの道を選ばず、フジテレビでの9年間を経て、また新たなステージへ。「アイスショーに出続けると、自分の衰えと向き合わなければならない」スケーターとしての道を歩み続ける選択肢もあった。しかし、彼女が選んだのは、スケートとは異なる世界に飛び込むことだった。テレビ局の厳しい環境、社会人としての新たな挑戦。アスリート時代とはまったく違う景色が広がっていた。そして今、彼女は審判としてフィギュアスケートと向き合っている。選手、解説者、そして審判へ――スケートとの関わり方は変わっても、競技への情熱は変わらない。自分の足で進み続ける中野友加里の現在地を語る。※トップ画像撮影/松川李香(ヒゲ企画)

「スケートだけの人生にしない――フジテレビでの9年間」
―― 競技引退後、フジテレビで働くことを選んだ理由は?
私の周りの選手たちは、22歳くらいで引退し、そのまま就職するのが一般的でした。もちろん、アイスショーに出演したり、コーチになったりする道もありましたが、私はそのどちらも選びませんでした。
理由は大きく2つあります。
ひとつは、アイスショーに出続けると、自分の衰えと向き合わなければならないから。
年齢を重ねるごとにパフォーマンスは落ちていく。それを受け入れながら続けることに、私は前向きになれませんでした。
もうひとつは、スケートの世界だけを知る人生にはしたくなかったからです。
普通に社会に出て働き、自分の力で生活を築いていきたいという思いがありました。そして、小さい頃から憧れていたスポーツキャスターの仕事に挑戦するため、フジテレビで働く道を選びました。
毎朝6時から練習の準備をしながら見ていた『めざにゅ~』や『めざましテレビ』。「この番組を作り上げる一員になりたい」と思ったのが、テレビの世界を志したきっかけでした。
さらに、フィギュアスケートの全日本選手権や世界選手権を放送していたのがフジテレビ。
6分間練習で全選手の様子を映す「6分割画面」、ジャンプのタイミングやリンクカバー率を可視化する「アイスタッツ」など、新しい試みを次々と取り入れているのを見て、「ここで学びながら、放送の仕事に関わりたい」と思ったんです。
―― 実際に憧れの世界に飛び込んでみて、満足度は?
結果的に9年間働きましたが、最初は本当に大変でした。スケートの世界とは全く違う環境で、驚くことばかりでしたね。テレビ局の仕事はとにかく厳しくて、報告が少しでも遅れるだけで怒られたり、当時はメディアならではの文化もあったり…。覚えることがとても多かったです。
でも、厳しさの中で学んだのは、「結局、どんな環境でも“人”によって大きく変わる」ということ。
会社の中で出会った方々にすごく助けられて、苦しい時も乗り越えることができた。「人の温かさ」 を改めて実感した9年間でしたね。
競技者から社会人へ―ゼロからのスタート
―― 競技の世界での「出会い」と、社会に出てからの「出会い」はどう違いましたか?
スケートの世界での出会いは、技術や競技のことを学ぶのが中心でした。例えば、コーチや仲間との関係の中で、技術を高め、試合で勝つための考え方を学ぶことが多かったですね。
でも、社会に出ると、それとはまったく違う種類の学びがありました。将来のことを考えたり、仕事の多様性を知ったり、人生そのものの学びが増えたんです。スケートの枠の中で完結していた世界が、一気に広がった感覚でしたね。
―― 社会に出て、具体的にどんなことを学びましたか?
たとえば、「人を見る力」 ですね。「この人はこういうことが得意だから、こういう話を聞けばいい」とか、相手の強みを見極める力が自然と養われました。
あとは、本当に基本的なことですが、電話の取り方やメールの送り方など(笑)。 競技の世界では経験しなかったことがたくさんあって、そういう細かい部分でも、社会のルールを学ぶことができました。
―― アスリート時代とは別の「やりがい」を感じるようになった?
そうですね。ただ、最初は本当に大変でした。覚えることが多くて、毎日会社に行くのが必死で。「今日もちゃんとやれるかな…」と思いながら出社することもありましたね(笑)。でも、仕事を覚えていくうちに、「人の役に立てる」と感じる瞬間 が増えてきたんです。そうなると、だんだん楽しくなってきて、会社の人たちと会うのも楽しみになりました。5年目を過ぎたあたりから、「働くのって楽しい!」と思えるようになりましたね。
―― 9年間働いてみて、満足度は何点くらい?
うーん… 80点くらいですかね。 まだまだやりたかった気持ちがあるので、100点とは言えないです。
当時はまだ子育てと仕事の両立がしやすい環境ではなかった んです。特に5年、6年前は、2人の子どもを保育園に預けながら働くのが本当に大変で…。
だからこそ、「少し家のことをやりながら、自分にできる仕事をしよう」 と思い、退職を決断しました。
スケートの世界から社会へ、新しい環境に飛び込み、挑戦を続けた9年間。その経験が、これからの人生にも活きていくのだと思います。
「選手、解説者、そして審判へ―スケートとの新しい関わり方」
―― 競技引退・退職から5~6年経ちましたが、今の生活はどうですか?
もうそんなに経つんですね。本当に思ったのは、「こんなにも人と喋らなくなるんだ」 ということでした。
会社にいると、仕事の話はもちろん、ランチの雑談とか、自然と会話が生まれますよね。あれがすごく楽しかったんです。でも、今は子どもと話す時間がほとんどで、会話の種類が全然違う。
そのせいか、寂しさを感じることもありました。だから、主人にたくさん話を聞いてもらってます(笑)。
―― フリーになってから、特に思い出深い活動はありますか?
コロナ禍にYouTubeをやっていた時期もありました。初めての試みでお友達のスケーターも対談に来てくれて楽しい時間でした。また来てくださったらやりたいですね。
一番やりがいがあったのは、フィギュアスケートの審判資格の取得です。それまでは最低限の審判業務しかしていませんでしたが、「本格的にやろう」 と思い立ち、勉強を始めました。その結果、審判の昇格試験に合格し、全日本の審判ができる級まで到達できたので、それはすごく嬉しかったですね。
―― 審判試験はやはり難関なんですか?
すごく大変でした。試験に向けての勉強量が膨大で、覚えることが多いんです。筆記試験と実技試験もあります。自分が演技をするわけではなく、選手の演技を見て採点し、正しく評価できているかを試験するのですが、緊張しました。久しぶりに試験を受ける緊張感 を味わいました(笑)。

―― 元選手が審判になるケースは多いんですか?
基本的に、審判はスケート経験者しかなれません。でも、日本代表レベルの選手が審判になるケースは意外と少ない んです。他にもいらっしゃいますが、数としてはそこまで多くはないと思います。
選手、解説者、そして審判――スケートとの関わり方は変わっても、競技への情熱は変わらない。今、新たな視点からスケートを見つめる面白さを感じています。
「競技とメディアの世界を経て、新たな挑戦へ」
ーー今後の理想の形や、目指していることはありますか?
子どもが今年4月に小学校へ入学するので、まずはそのサポートを優先したいと思っています。でも、少しずつ自分の時間ができたら、また働くことも視野に入れて考えようかなと思っています。ただ、そのタイミングは慎重に見極めているところですね。
―― 何か新しく挑戦したいことはありますか?
フジテレビ時代の経験を活かせる仕事ができたらいいなとは思っています。庶務経験も有り、パソコンを触るのが好きなので、事務作業の仕事にも興味があるんです(笑)。
スケートやメディアの仕事とは違うかもしれないけれど、そういう新しい分野にも挑戦してみたいです。
最後に残ったのは、スケート靴だけだった
――一生手放せない、大切な思い出の品は?
きっと、墓場まで持っていくとしたらスケート靴ですね。実は、引退した時に「もうスケート靴も手放していいかな」と思ったことがあったんです。でも、結局それ以外のものはほとんど手放しました。
―― 衣装は残していないんですか?
衣装は、母が何着か持っているのと、展示用に時々貸し出すことがあるので、少しだけ残しています。でも、自分の手元にはほとんどありません。唯一、スケート靴だけは残しました。
―― どのスケート靴を残しているんですか?
最後のシーズンに1年間履き続けたスケート靴です。スケート靴は新しく買い替えると高額ですし、慣れるまでに時間がかかる。だからこそ、履き慣れたものを持っておきたいという気持ちがあったんです。もう15年くらい経っているので、もしかしたら劣化して履けなくなるかもしれません。でも、それでもいい。履き潰すまで、ずっと持っておこうと思っています。
中野友加里(なかの・ゆかり)
1985年8月25日生まれ、愛知県出身。3歳でフィギュアスケートと出会い、その後フィギュアスケートの選手として活躍。伊藤みどり、トーニャ・ハーディングに次ぐ、世界で3人目となるトリプルアクセルに成功。スピンを得意とし「世界一のドーナツスピン」と国内外で高い評価を受けた。2010年バンクーバーオリンピックの代表を、浅田真央・鈴木明子・安藤美姫らと戦い、惜しくも代表の座を逃す。同年で現役引退。株式会社フジテレビジョンに入社し、番組ディレクターとして活躍し、退社後は講演活動や解説など幅広く活躍中。またフィギュアスケート審判の資格を有し、大会でも活動している。現在、2児の母。
Hair&make:Yuzuka Murasawa(PUENTE Inc.)
Photo:Rika Matsukawa