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「もしオリンピックに行っていたら…」元フィギュアスケート選手“中野友加里”が語る五輪、ライバル、そしてスケート人生の光と影

2000年代の日本女子フィギュアスケートは、まさに黄金時代だった。その中で、6種類の3回転ジャンプを武器に、独自のスタイルで戦い続けたスケーターがいた。中野友加里。「トリプルアクセルは、特別な技じゃない。跳ぶのが当たり前だった。」伊藤みどりを間近で見て育ち、難しいジャンプを特別視せず、「できて当たり前」と思いながら挑戦を続けた。しかし、努力だけでは超えられない壁があった。「オリンピックに行けなかった悔しさは、一生消えないかもしれない。」それでも、彼女は前を向いた。「もしオリンピックに行っていたら、今の人生はなかったかもしれない。」スケートと共に生きた日々。歓喜と挫折、そのすべてを受け入れた今、中野友加里が語る“戦いの記憶”とは――。 ※トップ画像撮影/松川李香(ヒゲ企画)

Icon       池田 鉄平 | 2025/03/26

トリプルアクセルは、特別な技じゃない。跳ぶのが当たり前だった

――中野さんは、6種類の3回転ジャンプを跳ぶ数少ない女子選手の一人でした。トリプルアクセルへの思いは?

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撮影/松川李香(ヒゲ企画)

私が育った練習環境は、決して恵まれたものではありませんでした。でも、人にはとても恵まれていたと思います。その中でも、伊藤みどりさんが身近な存在だったことは、私にとって大きな意味を持っていました。

みどりさんのトリプルアクセルを、何度も目の前で見てきました。だからでしょうか、「これは特別な技」「難しい技」と思ったことはなかったんです。むしろ、「いつか私も跳べるようになるもの」という感覚のほうが強かった。

私の中では、トリプルアクセルは特別な大技ではなく、「いずれ習得すべきジャンプのひとつ」 という位置づけでした。

―― 練習ではどのように取り組んでいましたか?

私にとって、トリプルアクセルは「3回転を跳べたから、その延長で3回転半をやる」という感覚でした。特別な技として意識するのではなく、あくまでジャンプの一つとして、普通に練習していたんです。

―― 伊藤みどりさんから、何かアドバイスをもらったことは?

一度、図々しくも「トリプルアクセルのコツって何ですか?」と聞いたことがあります。すると、みどりさんは少し考えてから、「うーん…感覚だから、難しいな」って(笑)。

まさに天才ならではの答えですよね。

私には、その「感覚」がなかった。だから、必死に練習するしかなかった。でも、みどりさんは本当に“ふわっ”と跳んでしまうんです。滞空時間の中で、まるで自然に回転し、スッと着氷してしまう。

あのジャンプを間近で見ていたからこそ、「私も跳べるはず」と思えたのかもしれません。

歓喜と絶望―それでも人生は続いていく

―― 現役時代、一番最高の瞬間と、最も苦しかった瞬間は?

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撮影/松川李香(ヒゲ企画)

やっぱり、日本で試合をする時は観客の応援や拍手が多くて、「ホーム感」を感じられるのがすごく嬉しかったです。でも、一番心に残っているのは、2008年の世界選手権(スウェーデン・ヨーテボリ) ですね。

私はその大会で、最後の滑走者 でした。前の選手の演技はまったく見ずに、ただ自分の演技に集中してリンクに向かいました。そして、演技を終えた瞬間、会場全体から大きな拍手と声援が聞こえてきたんです。

知らない国の人たちが、こんなに応援してくれているんだ――。

さらに、スタンディングオベーション をもらいました。通常、観覧している審判は、あまり感情を表に出さないのですが、その時は他のカテゴリーの審判が見に来ていて、審判の方々も立ち上がって拍手を送っていた と後から聞きました。それは本当に特別なことで、「この瞬間を味わえただけで、スケートを続けてきた価値があった」 と思えました。

―― 一番悔しかった瞬間は?

2009年の全日本選手権です。

「2位以上に入れば、バンクーバーオリンピック出場が決まる」――そういう状況でした。

ショートプログラムを終えた時点で2位。あと一歩。そう思って迎えたフリーでしたが、最終結果は3位。2位の鈴木明子さんに、わずか0.17点届きませんでした。

表彰台の順位が表示された瞬間、頭が真っ白になりました。

それまでの4年間、オリンピックを目標にすべてを捧げてきたのに、その道が閉ざされた。「終わった……」という感覚しかなかった。

何をどうすればいいのか分からず、ただ立ち尽くしていた私に、佐藤久美子先生が「あなたの努力がこの結果につながったのだから、堂々と表彰台に上がりなさい」と声をかけてくださいました。

先生の言葉に背中を押されて表彰式へ向かいましたが、その時の記憶はほとんどありません。 ただ呆然としながら、気づけば表彰台に立っていた。

―― 時間が経っても、その悔しさは残っていますか?

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撮影/松川李香(ヒゲ企画)

「時間が経てば忘れられるよ」と言われましたし、確かに当時の絶望感は薄れました。でも、スケート人生で唯一の後悔として、心の中にはずっと残っています。

それが良かったのか悪かったのか――その答えは、きっと一生出ないままかもしれません。

―― ある意味、その痛みと共存している?

そうですね。その悔しさをどう消化するのか、一生引きずるのか……その狭間にいる感じです。

でも、オリンピックに行っていたらまた違う人生だったかもしれないので、主人に出会えなかったかもしれないし、子供にも恵まれなかったかもしれない。

今、家族に恵まれて幸せに暮らせている。あの時の結果も含めて、これが私の人生だったんだ――そう思えるようになっています。

競技人生の終わりと、新たな自分へのカウントダウン

―― 競技を離れる決断をした時、どんな思いがありましたか?

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撮影/松川李香(ヒゲ企画)

22、23歳くらいから、体が思うように動かなくなってきました。今までと同じ練習量をこなせなくなり、無理をすると怪我につながるようになった。それがすごくもどかしくて。

ちょうどその頃から、「引退」という言葉が頭に浮かぶようになりました。大学4年で卒業した同期はみんな就職していて、スケートを続けているのは自分だけ。大学院に進んで競技を続ける選手は少なく、「そろそろかな」と思い始めたんです。

そこからは、自分の競技人生のカウントダウンが始まった ような感覚でした。「最大限やっても24歳までかな」と、自分の中で区切りをつけていました。

―― 競技を終えた瞬間、どんな気持ちでしたか?

「もうオリンピックに行けないんだ」――引退した瞬間、そう思いました。でも、スケートを続けるという選択肢は、自分の中にはもうなかったんです。

「やるだけやった」という気持ちはありました。スケートの練習だけじゃなく、陸上トレーニングやクラシックバレエまで、とにかくできることは全部やった。だから、「人生でこんなに運動することは、もう二度とないだろう」って思いましたね(笑)。

スケートに対する未練はなかった。でも、それ以上に、「オリンピックに行けなかった悔しさ」 がしこりとして残っていたのは確かです。

浅田真央、安藤美姫―切磋琢磨し、高め合った日々

―― ファンの存在は、競技生活の支えになっていましたか?

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撮影/松川李香(ヒゲ企画)

本当に、ファンの皆さんの存在は大きかった です。スケートがマイナースポーツからメジャースポーツへと変わる時代を経験し、その中でたくさんの方に応援していただけたことは、心から幸せでした。

手紙やプレゼントもたくさんいただきました。ひとつひとつ、すごく気を遣って選んでくれたのが伝わってきて、それがどれほどありがたかったか…。

24歳までスケートを続けられたのは、間違いなくファンの皆さんのおかげです。本当に、皆さんの応援がなかったら、ここまで頑張れなかったと思います。

―― 2000年代の女子フィギュアは、まさに黄金時代。同世代のライバルが多かったですが、どんな気持ちでいましたか?

私自身、「ライバル」という感覚はあまりなかったんです。普段は友達として接していましたし、一緒に頑張る仲間、という意識のほうが強かったですね。

特に、真央ちゃんや美姫ちゃん、荒川さん、村主(章枝)さんも含めて、同じ練習環境で時間を過ごしていた ので、彼女たちが頑張っている姿を見ると、「私ももっと頑張らなきゃ」と自然に思えました。

彼女たちの存在が、私のスケート人生を成長させてくれた。そういう環境で競技できたことが、私を強くしてくれたと思います。

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「無欲無心で跳ぶ」元フィギュアスケート選手・中野友加里が”限界”を超えた先に見えたものとは

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中野友加里(なかの・ゆかり)
1985年8月25日生まれ、愛知県出身。3歳でフィギュアスケートと出会い、その後フィギュアスケートの選手として活躍。伊藤みどり、トーニャ・ハーディングに次ぐ、世界で3人目となるトリプルアクセルに成功。スピンを得意とし「世界一のドーナツスピン」と国内外で高い評価を受けた。2010年バンクーバーオリンピックの代表を、浅田真央・鈴木明子・安藤美姫らと戦い、惜しくも代表の座を逃す。同年で現役引退。株式会社フジテレビジョンに入社し、番組ディレクターとして活躍し、退社後は講演活動や解説など幅広く活躍中。またフィギュアスケート審判の資格を有し、大会でも活動している。現在、2児の母。


Hair&make:Yuzuka Murasawa(PUENTE Inc.)
Photo:Rika Matsukawa