「無欲無心で跳ぶ」元フィギュアスケート選手・中野友加里が”限界”を超えた先に見えたものとは
トリプルアクセルを武器に戦った伊藤みどり。世界女王となった荒川静香、安藤美姫、浅田真央。日本のフィギュアスケート界は、個性あふれる選手たちがしのぎを削ってきた。その中で、独自の道を切り拓いたのが中野友加里だった。「気づいたときには、もうスケートがあった」と語る彼女にとって、リンクは“特別な場所”ではなかった。幼少期から自然と身についていたものが、やがて競技としての意識へと変わり、世界と戦う覚悟を持つようになる。だが、その道のりは決して平坦ではなかった。努力で限界を超え続ける日々、環境を変える決断、そして大きな壁にぶつかりながら掴んだ成功の感覚。なぜ、彼女は挑み続けたのか。なぜ、最後まで戦い抜くことができたのか。「無欲無心で跳ぶ」――そう言い聞かせながら、氷の上に立ち続けたスケーターの軌跡を、今、振り返る。 ※トップ画像撮影/松川李香(ヒゲ企画)

「気づいたときには、もうスケートがあった」
―― スポーツとの出会いは、どんな感じだったんですか?
幼少期の話になりますね。
一番古い記憶をたどると、すでにスケート靴を履いていました。母と手をつないでスケートリンクを滑る――それが、物心ついた頃の記憶です。だから、「スケートを始めた」という感覚はなくて、気づいたときにはもうスケートが生活の一部になっていましたね。
―― 最初にスケートにのめり込むきっかけは?
きっかけは、本当に“たまたま”でした。
兄がアイスホッケーを、姉がフィギュアスケートをやっていたので、自然な流れで3歳の頃からスケートを始めました。ただ、その頃の記憶はほとんどないんです。でも、母から「本格的にやるなら、選手にならないといけない」と言われて、「じゃあ、選手になる」と答えたらしいです。
3歳の頃はまだ遊び感覚でした。でも、小学校に上がるタイミングでクラブに入りました。当時、伊藤みどりさんを指導していた山田満知子コーチのもとで、本格的にスケートを始めたことが、スケート選手としてのスタートでした。
―― そこからスケート漬けの日々が始まったと思いますが、最初に感じた成功体験は?
最初の成功体験は、「級」を取れたことですね。
スケートの大会に出るためには、技術レベルを示す「級」が必要で、テストを受けて認定されるんです。初めて初級テストを受けたとき、審査員の方に「初級ではなく、もっと上の級の滑りをしている」と言われて。それがすごく嬉しくて、今でも鮮明に覚えています。
―― そこで手応えを感じた?
そうですね。「頑張れば、頑張っただけ成果が出るんだ」と実感した瞬間でした。
「伸び悩みと違和感――新たな挑戦への決意」
―― 日本を代表する選手になるまでの道のりで、ターニングポイントになった瞬間は?
愛知県で練習していた環境から、新横浜に拠点を移したこと。これが、日本代表として名前を挙げられるようになった大きなきっかけだったと思います。
――環境の違いは、どんなところでしたか?
アジア大会や四大陸選手権では結果を多少出せていたものの、高校最後の03-04シーズンは、新採点方式の導入もあり、練習しても思うような成果が出せませんでした。自分自身、伸び悩みを感じていた時期でもありました。
もちろん、名古屋の練習環境は素晴らしかったですし、山田満知子コーチの指導も本当に的確でした。でも、あるときコーチから「もともとこのレベルの選手だけど、努力と練習量で限界を超えている」と言われたんです。その言葉を聞いたとき、「まだまだやれるはず」と思いました。
もっと上達したい、もっと強くなりたい――。そんな思いから母と何度も話し合い、思い切って大学進学を名古屋ではなく東京に決め、コーチを変える決断をしました。12年間指導を受けた先生と離れることは、簡単な決断ではありませんでした。でも、母が「あなたならきっと大丈夫」と背中を押してくれたことで、東京へ行く覚悟ができました。
ーー新しいコーチは、どのように探しましたか?
新しい指導者を探す中で、小塚崇彦くんのお父様にお願いし、佐藤信夫先生を紹介していただきました。
「もし変わるなら、この先生しかいない」。そう思っていたので、迷うことなくお願いしました。
ーー佐藤先生の指導で、スケートはどのように変わりましたか?
佐藤先生のもとでは、まず基礎を徹底的に見直しました。以前、競技の中に「コンパルソリー」という氷上で図形を正確に描いて競う種目があったのですが、その習得からやり直したんです最初の1年間は、技術的な練習よりも基礎トレーニングが中心でした。
朝6時から徹底的に鍛えられ、それまで10分程度しかやっていなかった基礎練習を1時間かけて行う日もあるなど、練習方法が大きく変わりました。
また、顔の位置や指先の角度ひとつでバランスが変わることを学び、「基礎がどれだけ大切か」を改めて実感しましたね。
オリンピック代表争いの外から、舞台の中央へ
―― 努力が実を結んだと感じた瞬間は?
最初の1、2年間は、思うような成果が出ませんでした。「私、もっとやれるはずなのに」――そう思いながらも、なかなか結果につながらないもどかしさがありました。
でも、2年目に入ると先生の指導はさらに厳しくなり、練習の質も一段と上がりました。すると、少しずつミスが減り、練習での成功率が上がるようになったんです。そして、気づいたことがありました。
「練習で90~100%できていれば、本番でも80%は成功する」
この法則がわかった瞬間、試合での安定感が増しました。「練習の成果は、必ず本番に反映される」――そう確信できたことが、2年目の大きな成長だったと思います。
―― その結果、どんな変化がありましたか?
あの厳しい練習を乗り越えた先に、これまでとは違う景色が待っていました。
05-06シーズン、スケートカナダで3位、NHK杯で優勝。初出場となったGPファイナルでも3位に入りました。そして、全日本選手権では5位。トリノオリンピックの代表には届かなかったものの、四大陸選手権では銀メダル、世界選手権では5位という結果を残しました。
それまで、私は代表争いの「ランク外」だった。でも、最後には代表候補に入るまでに成長できたんです。
自分の実力をここまで引き上げられたこと。それが、このスケート人生最大の転機だったと思います。
―― フィギュアスケートは「自分との戦い」だと思います。本番で成果を出すために、メンタル面はどう乗り越えていましたか?
本番でベストを尽くす――言葉にするのは簡単ですが、それを実践するのは本当に難しい。先生からは、いつもこう言われていました。
「人は欲が出ると、本番で力が入りすぎてしまう。だから、無欲無心で滑ること」
特に、「人事を尽くして天命を待つ」。この言葉は、耳にタコができるほど聞かされました。
練習してきたことがすべて。本番の結果は、そのときのコンディション次第。だからこそ、「あとは自分を信じるしかない」。そう思うようになりました。よく、試合前にコーチと選手が話しているシーンがテレビで映りますよね。でも、私の先生は技術的な指示をほとんどしませんでした。ただ、「大丈夫だから」「できるから」とだけ声をかけてくれる。その一言が、すごく大きかった。試合前は気持ちが高ぶっていて、細かいアドバイスなんて耳に入らない。でも、シンプルな言葉だからこそ、スッと心に染み込むんです。その瞬間、余計な雑念が消え、自分のスケートに集中できるようになりました。
中野友加里(なかの・ゆかり)
1985年8月25日生まれ、愛知県出身。3歳でフィギュアスケートと出会い、その後フィギュアスケートの選手として活躍。伊藤みどり、トーニャ・ハーディングに次ぐ、世界で3人目となるトリプルアクセルに成功。スピンを得意とし「世界一のドーナツスピン」と国内外で高い評価を受けた。2010年バンクーバーオリンピックの代表を、浅田真央・鈴木明子・安藤美姫らと戦い、惜しくも代表の座を逃す。同年で現役引退。株式会社フジテレビジョンに入社し、番組ディレクターとして活躍し、退社後は講演活動や解説など幅広く活躍中。またフィギュアスケート審判の資格を有し、大会でも活動している。現在、2児の母。
Hair&make:Yuzuka Murasawa(PUENTE Inc.)
Photo:Rika Matsukawa