さすらいのストライカー「木下康介 (シント=トロイデンVV) インタビュー」Vol.1:アグエロやバロテッリと練習した高校時代
木下康介は高校時代にマンチェスターシティの練習に参加することを皮切りに、ドイツ、スウェーデンとヨーロッパで揉まれてきた身長190㎝の大型ストライカーだ。昨年にスウェーデンで13得点という結果を叩き出したこともあり、シント=トロイデンVVに1月に加入し、デビュー戦では得点を記録した。これまでの人生をスパイクの話と共にベルギーの地でたっぷり聞かせてもらった。
菊池 康平
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2019/05/10
ーー木下さんは色々な国でプレーされてきたので、聞きたいことが沢山ありますが、まずはスパイクの話を聞かせてもらいますね。ー番はじめに履いたスパイクを覚えていますか?
木下:最初はミズノです。小学校から中学校くらいまでずっとミズノを履いてました。
ーー最初にミズノを履いたきっかけはなんでしたか?
木下:あんまり覚えてないですけど、父親とスパイクを買いに行った時にミズノが目についたんだと思います。最初は全然スパイクのこと知らなかったので、たまたまですね。
ーーちなみにサッカーはいつから始めたんですか?
木下:小学校2年の終わり頃からでした。
ーー何かきっかけはあったんですか?
木下:友達から誘われたことです。もともと野球かサッカーか迷っていたんです。父親が野球をやっていたので、小学校に入る前は父とよく野球をしてました。
チームには入っていなかったので、どこかのチームに入ろうかなと考えた時に、仲の良い友達がサッカーをやっていたので、なんとなくそっちに流れていったんです。
ーーお父さんにとっては残念でしたね。高校からは横浜FCユースに所属しましたよね。高校時代はどんなスパイクを履いていましたか?
木下:ミズノを履き続けて、年代別の日本代表に入ってからはスポンサーのアディダスから、そのスパイクをいただいたのがきっかけで、アディダスを履くようになりました。
ーー当時は、スパイクを『見た目で選ぶ』、『軽さで選ぶ』など、何かこだわりはありましたか?
木下:当時はあまりこだわりはなかったですが、やはり履きやすさを気にしていました。色などの見た目では選ばなかったです。ミズノのスパイクに不満はなかったので、継続して履いていました。
ミズノをやめたわけではなく、代表になってアディダスをいただくようになって、だんだんアディダスも良いなと思うようになりました。
ーー高校時代にマンチェスターシティのテストを受けるためにイングランドへ渡り、練習参加されてますよね。その経緯やきっかけを教えてください。
木下:きっかけはユースに上がる前にコーチとの面談です。そのタイミングで「海外に行きたいと思ってる」と言いました。
それで、いざどうするか考えた時に、オファーがあれば当然いいんですけれど、ユースでやっている選手なんで、そう簡単にはいかないじゃないですか。
じゃあ自分でアピールしないといけないということで、僕の恩師が代理人を紹介してくれて、その人が僕のプロフィールや映像を送ってくれて、練習参加という形になりました。
ーー高校3年生の時に練習参加ですよね?その年齢でマンチェスターシティの練習に参加するとは夢の世界ですよね。
木下:そうですね、当時まだ17歳だったので。
ーー実際行ってみてどうでしたか?トップチームに入るんですか?
木下:基本的にはU21とかU23などのセカンドチームでやっていました。でもそこにトップチームの選手も何人か来ていて。
あの時はシティがプレミアリーグで初優勝した直後だったので、普段テレビで見ている選手がいて、すごいなと思って練習をしてましたよ。
その時は調整のためか、セカンドチームにアグエロやダビド・シルバ、あとバロテッリもいて、一緒に練習したのを覚えてます。でも、アデバヨールとロケ・サンタ・クルスはずっとセカンドにいましたね。
ーー実際に一緒にやってみて、レベルはどうでしたか?
木下:レベルは、当然高いですけれど、必死だったので自分がプレーすることで精一杯でした。
ーー大人でもマンチェスターシティの選手たちと一緒にやるだけでテンションが上がるじゃないですか。
特に当時、高校生と若かったわけですが、どんな感じでそういった選手を見ていましたか?
夢のような感じですか?それともライバルとして見ていましたか?
木下:ただただすごいなと。当時は英語も喋れないので話しかけたりできなくて、見てるだけでした。
テベスが筋トレしてたり、飯を食べていたらコンパニが来たり、練習に出ようと思ったらサバレタに挨拶されたり、それはすごかったですよ。
ーー17歳でその経験は貴重ですね。何か思い出に残ってるエピソードとかありますか?
木下:英語はそこまで出来ませんでしたが、海外では挨拶として握手したりするじゃないですか。トップの選手でもちゃんと僕のところへ来て挨拶してくれるのは嬉しかったです。
ーー日本人としてナメられるとか、そういうのはありませんでしたか?ボールを回してこないとか。
木下:別にそんな感じは無かったですね。わりとウェルカムだったかなと思います。
ーーそこでトップ・オブ・トップの選手と一緒にやることで、もしかしたらこのレベルで出来るかもしれないという自信は生まれましたか?
木下:そうですね。でもトップの選手たちは調整で来ているので、彼らがどの程度、本気でやっているのかは分からないので。バロテッリとかいたら、割とみんな遠慮します。威圧感あるし。けっこうめちゃくちゃなことを練習でもやっていて(笑)。
――具体的には?
木下:いきなりコーチにフルパワーでシュートして大笑いしていたりとか。力関係がわからないですけれど、セカンドのコーチも何も言わないんですよね。でも悪い雰囲気ではなく、いい感じでしたよ。
ーーマンチェスターシティの練習に1週間から10日ほど参加されて、その後はどうなったんですか?
木下:その後にフライブルク(ドイツ・ブンデスリーガ)にも1週間くらい行ったんですよ。
ーーフライブルクも当時1部でしたもんね。どんな感触でした?
木下:日程的にトップチームの練習には参加できず、ほぼセカンドチームでやっていたんですけれど、フライブルクの方がやれる感触がありました。先にマンチェスターシティで慣れていたのもあるんでしょうけどね。
シティの方がフィジカル的にちょっと群を抜いているというか、セカンド同士ですけどフライブルクよりもみんな体が大きいし速いなと感じました。
ーーフライブルクも一流の選手がセカンドの練習に来たりもするんですか?
木下:練習にはあまり来ないです。僕は当時、練習参加だけでリーグ戦に出るわけではなかったんですけど、入ってみて分かったことは、試合では、トップで出てなかった選手たちがセカンドの試合にけっこう来るんですよ。多い時は5人とか6人とか来るんです。
ーー必然的にレベルも高くなりますよね。初めての海外がこの2チームじゃないですか。どんな刺激を受けましたか?
木下:楽しかったですね。ポジティブなことしかなかった印象です。もともと海外に行きたいと思っていたので、夢に向かって一歩目のスタートを切れてすごく毎日が充実していました。
ーー若い頃から海外に行きたいと思っていた理由を教えてください。
木下:子供の頃からJリーグより海外サッカーをよく見ていたので、すり込まれていったというか、自然とこの舞台でやってみたいなと思うようになっていきました。
ーープレミアリーグを見ることが多かったんですか?
木下:そうですね。プレミアも見ましたし、W杯も2002年から見始めて、あのときはドイツ代表もすごかったから印象に残っています。
でも漠然と「ヨーロッパ」だったので、具体的にどこかの国にというよりは「ヨーロッパでプレーしてみたい」という感じでしたね。
Vol.2へつづく
写真:菊池康平
木下:最初はミズノです。小学校から中学校くらいまでずっとミズノを履いてました。
ーー最初にミズノを履いたきっかけはなんでしたか?
木下:あんまり覚えてないですけど、父親とスパイクを買いに行った時にミズノが目についたんだと思います。最初は全然スパイクのこと知らなかったので、たまたまですね。
ーーちなみにサッカーはいつから始めたんですか?
木下:小学校2年の終わり頃からでした。
ーー何かきっかけはあったんですか?
木下:友達から誘われたことです。もともと野球かサッカーか迷っていたんです。父親が野球をやっていたので、小学校に入る前は父とよく野球をしてました。
チームには入っていなかったので、どこかのチームに入ろうかなと考えた時に、仲の良い友達がサッカーをやっていたので、なんとなくそっちに流れていったんです。
ーーお父さんにとっては残念でしたね。高校からは横浜FCユースに所属しましたよね。高校時代はどんなスパイクを履いていましたか?
木下:ミズノを履き続けて、年代別の日本代表に入ってからはスポンサーのアディダスから、そのスパイクをいただいたのがきっかけで、アディダスを履くようになりました。
ーー当時は、スパイクを『見た目で選ぶ』、『軽さで選ぶ』など、何かこだわりはありましたか?
木下:当時はあまりこだわりはなかったですが、やはり履きやすさを気にしていました。色などの見た目では選ばなかったです。ミズノのスパイクに不満はなかったので、継続して履いていました。
ミズノをやめたわけではなく、代表になってアディダスをいただくようになって、だんだんアディダスも良いなと思うようになりました。
ーー高校時代にマンチェスターシティのテストを受けるためにイングランドへ渡り、練習参加されてますよね。その経緯やきっかけを教えてください。
木下:きっかけはユースに上がる前にコーチとの面談です。そのタイミングで「海外に行きたいと思ってる」と言いました。
それで、いざどうするか考えた時に、オファーがあれば当然いいんですけれど、ユースでやっている選手なんで、そう簡単にはいかないじゃないですか。
じゃあ自分でアピールしないといけないということで、僕の恩師が代理人を紹介してくれて、その人が僕のプロフィールや映像を送ってくれて、練習参加という形になりました。
ーー高校3年生の時に練習参加ですよね?その年齢でマンチェスターシティの練習に参加するとは夢の世界ですよね。
木下:そうですね、当時まだ17歳だったので。
ーー実際行ってみてどうでしたか?トップチームに入るんですか?
木下:基本的にはU21とかU23などのセカンドチームでやっていました。でもそこにトップチームの選手も何人か来ていて。
あの時はシティがプレミアリーグで初優勝した直後だったので、普段テレビで見ている選手がいて、すごいなと思って練習をしてましたよ。
その時は調整のためか、セカンドチームにアグエロやダビド・シルバ、あとバロテッリもいて、一緒に練習したのを覚えてます。でも、アデバヨールとロケ・サンタ・クルスはずっとセカンドにいましたね。
ーー実際に一緒にやってみて、レベルはどうでしたか?
木下:レベルは、当然高いですけれど、必死だったので自分がプレーすることで精一杯でした。
ーー大人でもマンチェスターシティの選手たちと一緒にやるだけでテンションが上がるじゃないですか。
特に当時、高校生と若かったわけですが、どんな感じでそういった選手を見ていましたか?
夢のような感じですか?それともライバルとして見ていましたか?
木下:ただただすごいなと。当時は英語も喋れないので話しかけたりできなくて、見てるだけでした。
テベスが筋トレしてたり、飯を食べていたらコンパニが来たり、練習に出ようと思ったらサバレタに挨拶されたり、それはすごかったですよ。
ーー17歳でその経験は貴重ですね。何か思い出に残ってるエピソードとかありますか?
木下:英語はそこまで出来ませんでしたが、海外では挨拶として握手したりするじゃないですか。トップの選手でもちゃんと僕のところへ来て挨拶してくれるのは嬉しかったです。
ーー日本人としてナメられるとか、そういうのはありませんでしたか?ボールを回してこないとか。
木下:別にそんな感じは無かったですね。わりとウェルカムだったかなと思います。
ーーそこでトップ・オブ・トップの選手と一緒にやることで、もしかしたらこのレベルで出来るかもしれないという自信は生まれましたか?
木下:そうですね。でもトップの選手たちは調整で来ているので、彼らがどの程度、本気でやっているのかは分からないので。バロテッリとかいたら、割とみんな遠慮します。威圧感あるし。けっこうめちゃくちゃなことを練習でもやっていて(笑)。
――具体的には?
木下:いきなりコーチにフルパワーでシュートして大笑いしていたりとか。力関係がわからないですけれど、セカンドのコーチも何も言わないんですよね。でも悪い雰囲気ではなく、いい感じでしたよ。
ーーマンチェスターシティの練習に1週間から10日ほど参加されて、その後はどうなったんですか?
木下:その後にフライブルク(ドイツ・ブンデスリーガ)にも1週間くらい行ったんですよ。
ーーフライブルクも当時1部でしたもんね。どんな感触でした?
木下:日程的にトップチームの練習には参加できず、ほぼセカンドチームでやっていたんですけれど、フライブルクの方がやれる感触がありました。先にマンチェスターシティで慣れていたのもあるんでしょうけどね。
シティの方がフィジカル的にちょっと群を抜いているというか、セカンド同士ですけどフライブルクよりもみんな体が大きいし速いなと感じました。
ーーフライブルクも一流の選手がセカンドの練習に来たりもするんですか?
木下:練習にはあまり来ないです。僕は当時、練習参加だけでリーグ戦に出るわけではなかったんですけど、入ってみて分かったことは、試合では、トップで出てなかった選手たちがセカンドの試合にけっこう来るんですよ。多い時は5人とか6人とか来るんです。
ーー必然的にレベルも高くなりますよね。初めての海外がこの2チームじゃないですか。どんな刺激を受けましたか?
木下:楽しかったですね。ポジティブなことしかなかった印象です。もともと海外に行きたいと思っていたので、夢に向かって一歩目のスタートを切れてすごく毎日が充実していました。
ーー若い頃から海外に行きたいと思っていた理由を教えてください。
木下:子供の頃からJリーグより海外サッカーをよく見ていたので、すり込まれていったというか、自然とこの舞台でやってみたいなと思うようになっていきました。
ーープレミアリーグを見ることが多かったんですか?
木下:そうですね。プレミアも見ましたし、W杯も2002年から見始めて、あのときはドイツ代表もすごかったから印象に残っています。
でも漠然と「ヨーロッパ」だったので、具体的にどこかの国にというよりは「ヨーロッパでプレーしてみたい」という感じでしたね。
Vol.2へつづく
写真:菊池康平