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日本バスケットボール界のパイオニア、田臥勇太の挑戦と軌跡を振り返る!

日本人初のNBAプレーヤーであり、現在もBリーグの「宇都宮ブレックス」で活躍するバスケットボール選手、田臥勇太。90年代、日本にバスケが根付いていなかった時代に、井上雄彦による漫画『スラムダンク』が国民的な大ヒットを記録。その数年後、リアルスラムダンクを体現するかのように能代工業高校で無敵を誇る高校生として登場したのが田臥勇太だった。この時代をリアルタイムで堪能した者ならば、田臥が現在のバスケットボールの盛り上がりの最初の一歩を記したことに異論を唱える者はいないだろう。 メイン画像・タケダユタカ

Icon       池田 鉄平 | 2024/05/20
田臥勇太選手のキャリアは、日本のバスケットボール史において不朽のものとして語り継がれるだろう。彼の功績と才能は多くのファンにとって永遠の記憶となり、そのプレーからは勇気と決断力、そして情熱が感じられる。

高校時代の黄金期


中学時代からその才能が注目されていた田臥は、バスケットボールの名門・能代工業高校に進学。彼はアクロバティックなプレースタイルとトリッキーな個人技で、多くのファンを魅了し、高校バスケットボール界の黄金期を築き上げた。インターハイ、国体、ウインターカップの3大大会を3年連続で制覇し、公式戦での敗北は1年生の時の東北大会での1試合のみという圧倒的な成績を残した。

能代工が試合をすれば、どこの会場も満員札止め。1万人収容の東京体育館で開催されたウインターカップでは立ち見の人垣ができ、それでもあふれた人々がフロアに座って観戦するほどの人気ぶりだった。高校9冠の不敗神話を築いた能代工の主人公たちはテレビや雑誌に多く取り上げられた。

田臥のプレースタイルはその当時から群を抜いており、彼のパフォーマンスは観客を魅了した。特に、彼のスピードとテクニック、そして冷静な判断力は他の選手たちとの差を感じさせるものであった。高校バスケットボールの試合は彼の活躍により全国的な注目を集め、その人気は一気に高まった。

アメリカでの挑戦と挫折


高校卒業後、田臥はアメリカのブリガムヤング大ハワイ校(NCAA二部)に進学。しかし、単位取得の問題や怪我の影響で公式戦に出場できない日々が続いた。異国の地での生活は決して楽ではなく、言葉の壁や文化の違い、そしてバスケットボールのレベルの高さに苦しんだ。それでも彼は諦めず、挑戦を続けた。

苦難の末、大学を中退し、日本へ戻ってトヨタ自動車に加入。新人王にも輝く活躍を見せたが、彼の目標はあくまでNBAであった。トヨタ自動車での経験は田臥にとって重要なステップとなり、彼の技術と自信をさらに磨き上げるものとなった。 


田臥がNBAに挑戦する過程で学んだこと


「誰もがコートで眼を血走らせている。パスがもらえなければ、相手と揉めようが自分からボールを奪いにいく。アピールできなければクビになることを知っているからだ。」

そんな厳しい競争社会で田臥は揉まれてきた。

「彼らは幼い頃からそういう環境で育っていますから。スマートにプレーしないといけないんですけど、がむしゃらにやることも重要で。全世界からNBAを目指してアメリカに集まってきているなかで、いかに自分を表現するかっていう部分は大事です。僕もマイナーリーグ時代に学んだことでした。」

エゴイズムと挑戦


田臥がNBAに挑戦する過程で養った最大のメンタリティは「エゴイズム」だった。それを身につけなければ、同じ目線で戦うことすらできなかったのだ。

田臥には才能だけでは埋められないハンデがあった。そう、身長だ。190センチでも「低い」と言われるNBAにおいて、173センチの田臥が欧米の選手たちと並ぶと、その低さが一層際立った。

それでも彼は2004年、フェニックス・サンズの選手としてコートに立った。NBAでの通算成績は4試合で7得点、3アシスト。平均出場時間は4分25秒という短いものであったが、その足跡はあまりにも大きく、深い。だからこそ、田臥の「自分を表現することが大事」という言葉には重みが宿る。

「世界とどう渡り合っていくか。それは、これからの日本人の大きな挑戦だと思います。」

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画像・タケダユタカ
フェニックス・サンズを解雇された後、田臥は再びNBA契約を目指して奮闘したが、2008年に日本でのプレーを選んだ。選んだのはリンク栃木ブレックス(現・宇都宮ブレックス)。高校時代の恩師、加藤監督が率いるこのチームで、田臥は再び輝きを取り戻した。2009-10シーズンにはJBLファイナルでアイシンシーホースを破り、優勝を果たし、プレーオフMVPに輝いた。

2016-17シーズンにはBリーグ初代王者として優勝を果たし、Bリーグオールスターにも選出。このシーズン、田臥はBリーグベスト5にも選ばれ、その人気と実力を再確認させた。そして2021-22シーズンには、宇都宮ブレックスを再び優勝に導いた。この「下剋上優勝」と呼ばれた勝利は、田臥の経験とリーダーシップがチームに大きな影響を与えた証と言える。

田臥が実感した日本と世界の差


田臥が見た「日本と世界の差」は、代表チームにおいても顕著だ。東京五輪でも予選ラウンド全敗という結果に終わり、まだまだ世界水準とは程遠い位置にいることを示した。

シュートやパスの正確性、ゴール下でのフィジカルコンタクトの激しさ。田臥は東京五輪を見て、「各国との差を感じた」と語るが、最も気になったのは日本人選手のメンタリティだった。

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画像・タケダユタカ
「『国を代表して戦うことの激しさ』を対戦相手から肌で感じて『自分も変わろう』とは思ったはずなんです。でも、実際にオリンピックが終わって間が空いてしまうと、その意識を持ち続けるのって難しいと思うんですよ。でも、雄太や塁は所属チームに戻っても常に激しい競争のなかでプレーしているんで、強い気持ちを持ち続けられる。その彼らが代表にいることはすごく大きなことだし、Bリーグの選手たちも少しずつ変わっていけるんじゃないかな、とは感じています。」

日本バスケットボール界の旬の「顔」として活躍する河村勇輝

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画像・タケダユタカ
「父が田臥さんの大ファンで、僕にとっても憧れの存在です。栃木(現宇都宮)の試合を見に行ったり、ビデオがすり切れるまで映像を見たり。小学1年から6年の頃は、田臥さんの能代工高時代のDVDを見ながら寝落ちするような毎日でした。」

40代半ばに差しかかっても挑戦し続ける姿勢

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画像・BLEAGU提供
田臥勇太は、そのキャリアを通じて常に挑戦し続ける姿勢を貫いてきた。彼の物語は「年齢や困難に関係なく、夢を追い続けることの大切さ」を教えてくれる。NBAでの挑戦の日々から得た教訓と、現在も続くその姿勢は、多くの人々に勇気を与え続けている。

田臥の軌跡は、日本のバスケットボール界に計り知れない影響を与え、今後も多くの若い選手たちにとっての道しるべとなるだろう。その挑戦と情熱は、これからも多くの人々を鼓舞し続けるに違いない。