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自分の個性を極めてほしい。元日本代表・原歩が、サッカー指導者として未来のなでしこに伝えたいこと

かつて、なでしこジャパンのキャプテンとしてチームを牽引し、2008年の北京五輪日本代表としても活躍された原歩さん。2009年に現役を引退し、現在はセカンドキャリアとして女子サッカー「FC町田ゼルビアレディース」のコーチを務めるなど、指導者の道を歩んでいる。インタビュー最後となる今回は、現在履いているスパイクに至るまでの流れを伺うとともに、コーチとして活躍するまでの経緯をお聞きした。そして最後には、サッカー指導者・原歩として、未来のなでしこジャパンに向けたメッセージをお届けする。

Icon 1482131451808 佐藤 主祥 | 2018/04/18
<インタビュー第1回はこちら>
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<インタビュー第3回はこちら>

ー2006年にINACレオネッサ(現・INAC神戸レオネッサ)とプロ契約して、4年間プレーされましたが、初めてのプロとしての生活はいかがでしたか?

:もう他に仕事をすることなくサッカーだけできたので、身も心もサッカー漬けになれましたね。

それに体も変わりました。その時は29歳だったんですけど、「この歳でも体って変わるんだ」「これだけ動けるようになるんだ」って、体の変化をすごく実感したんです。

ープロになる前だったら、8時間仕事して、その後に練習っていう流れでしたしね。だからその8時間を体のケアに当てたり、トレーニングに使ったりできると。

:はい。サッカーだけに徹することができる環境というのは、こんなにありがたいことなんだなって思いましたね。

ー練習や休養に時間を使える分、怪我をすることが減ったりというのは?

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:だいぶ減りましたね。ただ、もともと怪我持ちだったので、大怪我はしなくなりましたけど、肩を脱臼したりとか、小さい怪我はどうしてもありました。

その理由としては、私が接触の多いプレースタイルだというのがあるんです。日本女子サッカー界の中では体が大きい方だったので、局面によってはファウルをもらいにいったりとか、フィジカル面を重視していました。

日本だけじゃなく、世界と戦うためにはフィジカルを強化していかないといけないので。だから足元のうまさ以上に、体の強さというのをストロングポイントにしていたんです。

逆にそれが怪我を招いてしまう原因でもあったんですけど、それに対しては後悔はしていません。

ーなるほど。ちなみに、INAC時代はどのメーカーのスパイクを履かれていたんですか?

:INACに入った当初は『ディアドラ』を支給してもらっていました。でもその後に、『ヒュンメル』の担当の方から連絡があって、足型を取ってオーダーメイドのスパイクを作ってくれるというお話をいただいたんです。

今までいろんなスパイクを試してきましたけど、自分のために作ってくれるというのは初めてだったので、それはもう「是非お願いします!」と。なので、それからはずっとヒュンメルを履いていますね。

ーこのインタビューの第2回で、読売日本サッカークラブベレーザ(現・日テレベレーザ)時代は『パラメヒコ』を履いていたと伺いました。INACに入る前まではずっとパラメヒコだったということですか?

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:いえ。ベレーザから伊賀FCくノ一に入ってからは、生活が苦しくてパラメヒコ買えなくなっちゃったんですよ(笑)

私の場合、プレー中にターンをする時、グッと踏ん張ることが多いので、それに耐えられるスパイクとしてはパラメヒコが一番自分に合っていたんです。

でも買えなくなってからいろいろ試したんですけど、カンガルー革だと柔らか過ぎて、踏ん張った時に耐えられない。なので合成皮革の中でもちょっと柔らかいぐらいのスパイクを探しまくりました。

最終的に見つけたのが、『ティゴラ』というスポーツブランドのスパイクです。私のプレースタイルに合っていて、当時の私でも払えるぐらい安いんですよ!(笑)

やはりスパイクは月に一足はダメになってしまいますし、常に二足以上は用意しておかないといけないというのもあったので、ティゴラさんには本当にお世話になりましたね(笑)

それと、少しだけアシックスの『DSライト』も履いてました。

ー本当にたくさん履いているんですね。では、2009年に再び現役引退を発表されましたが、やめるきっかけというのは?

:北京五輪で全てを出し尽くして、気持ちが切れたというのが引退を決めた理由です。それに若干、パフォーマンスの方でも感覚にズレが生じるんですよ。

1つのパスでも狙った位置より1〜2cmズレて、思ったようにコントロールできないんです。もうこれ以上ズレたらサッカーが嫌いになってしまいそうだったので、まだ好きなうちに退こうと思ったのも理由の1つですね。

ー意識はしていても、それが動きに反映されないんですね。引退されてからは、すぐに指導者として活動されたんですか?

:はい。でも、そもそもセカンドキャリアで指導者になるつもりはなかったんですよ。

ー確かに、原さん柔道整復師の資格を取ろうとしてましたしね(笑)

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:そうなんですよ(笑)

それでも何でコーチになったのかというと、引退したタイミングでセレッソ大阪の女子チームが立ち上がりまして、「指導者を探してるから、うちに来てほしい」というお話をいただいたからなんです。

でも私、当時はコーチのライセンスを持っていなかったんですよね(笑)

ーえ、どうされたんですか?

:シーズンが12月〜翌年の1月に終わって、ちょうど2月にライセンスの講習会があったので、すぐ受けることにしたんです。セレッソ大阪からは「新年度から入ってくれればいい」と言っていただいたので。

それでトントンと決まって、指導者の道を歩むことになったんです。

ー本当にタイミングというか、縁があったんですね。

:そうですね。セレッソ大阪では指導者としていろいろ学ばせていただいて、2013年からはASエルフェン狭山FC(現・ASエルフェン埼玉)にコーチとして就任したんです。

その時は、あわよくば選手としても復帰できたらなという思いあったので、1年弱コーチとして仕事をさせていただいてから、現役に復帰しました。

それから1年間プレーしたんですけど、とんでもなかったですね(笑)

ーだいぶブランクがありましたしね(笑)

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:それに怪我持ちだったのを忘れていて、復帰した時に膝がボーンッて腫れて、えらい騒ぎになりました(笑)。その膝の怪我が治って復帰した時も、肩がガーンッて外れてしまって(笑)

ーえ〜!?じゃあ指導者としては縁はあっても、選手としては…。

:縁がなかったです(笑)。でも指導者としてサッカーを学び直して、それを一度自分のプレーで、ピッチの上で表現してみたかったので、すごくいい機会をいただいたと思っています。その経験が今の自分に繋がっていますから。

ーなるほど。では最後に、これから女子サッカー選手を目指していく子供たちに向けて、メッセージをお願いします。

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:はい。一番伝えたいのは、自分の特徴や個性を伸ばしてほしいということです。

今の女子サッカー界は選手層の底辺は広がっていますし、プレーの質も上がっています。昔は本当にうまい人は一握りでしたが、今は違う。

なので、みんなと同じことをやるんじゃなくて、自分にある特徴を突き詰めて、それを極めていってほしいですね。

ーそれは、下の世代で教えていく指導者にも心に留めておいてほしい言葉のような気がします。

:そうですね。小さい子には特に伸び代がありますので、個性を潰さずに、逆にそれを伸ばせるような教え方をしてほしいと思います。


<取材協力>

◆FC町田ゼルビアレディース