多村仁志が語る 日の丸の刺繍が印象的なグローブへのこだわり
横浜DeNA、ソフトバンク、中日の3球団で、長距離打者として活躍された多村仁志さん。ですが、元々は打撃よりも、強肩や守備を評価されていた選手だったそうです。今回は、堅守を支えたグローブへのこだわりを多村仁志さんに語っていただいた。
KING GEAR編集部
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2018/02/11
――日の丸の刺繍が入ったこのグラブは、いつ頃使用されていたものですか?このグローブを選ばれた理由も教えてください。
多村:これは2015年、横浜DeNAベイスターズを退団した後に使い始めたグラブです。当時は、海外移籍も視野に入れていたので、日の丸の刺繍を入れてもらいました。
外野手は長い距離を走るので、グラブは極力軽く、芯は硬め。そして、素材は、丈夫でしなやかなものを選ぶようにしていましたね。
実際に多村さんにグローブをはめていただいた様子。グローブの人差し指に指を入れないフォームが特徴的だ。
――グローブは、毎年新しいものを使われるのですか?
多村:毎年自主トレ中に担当者の方がいくつか持って来たグラブの中から一つ選び、練習時に自分の手に馴染ませたグローブを、翌年の試合で使っていました。
――続いて、プロ入り前のお話をお伺いしたいと思います。多村さんが、外野手としてのキャリアを歩まれたのは、いつですか?
多村: もともと中学時代は投手と遊撃手をやっていました。 ですが、中学の時に出た大会で、後に横浜高校でチームメートになる斉藤宣之(現東京ヤクルトスワローズスカウト)に本塁打を2本打たれまして、「この打者みたいになりたい」と野手一本に専念するきっかけになりました。
その後、遊撃手として高校に入学しましたが、この時に横浜高校でレギュラーだったのが、のちにシドニーオリンピックでも活躍する平馬(淳 現東芝野球部監督)さん。
「これは越えられないな」と思っていた矢先に渡辺監督(横浜高校)からの要望で外野手に転向しました。高校1年のことです。
――多村さんの高校時代は、どんな選手でしたか?
多村:皆さん意外に思われるかもしれませんが、高校時代は、打撃よりも守備が得意な選手でした。僕がプロ入りできたのも守備が評価されたからだと聞いていますし。
その中でも、一番自信があったのは肩です。当時からホームプレートから投げたボールを、120m先にあるバックスクリーンに当てることができました。外野手転向は、この強肩を生かすと言う監督の意向もありました。
――高校時代、憧れていた選手はいましたか?
多村:当時、ピッツバーグパイレーツの遊撃手としてプレーしていたジェイ・ベル選手ですね。どちらかというと、日本のプロ野球より、メジャーリーグに強い憧れを持っていました。
後に調べたところ、オジー・スミス(当時セントルイス・カージナルス)の13年連続ゴールデングラブ獲得を阻止した方だと知りました。しかも「上手だな」と思った時が、ちょうどそのシーズン(1993年)だったんですよ。「当時の自分の目が確かだった」ことがわかって嬉しかったです(笑)。
――打撃よりも守備にこだわりをお持ちだったんですね?
学生の時は、打撃よりもファインプレーへの憧れが強かったですね。映像で見たメジャーリーグの選手と、同じプレーができるように、日頃から練習に励んでいました。
――メジャーリーグのプレーに魅了された高校時代についてお伺いしましたが、2006年には、第1回WBCの日本代表としてご活躍されていますね。グローブに刺繍が入っている「日の丸」を背負ったときに感じられたことはありますか?
多村:イチローさんをはじめとする錚々たる面々が揃っていたので、まさか自分が日本代表のレギュラーとして、全試合に出るとは思ってもみませんでした(笑)。
初めて行われる大会だったので、この時は、日本で野球を頑張っている少年少女、応援してくださるファンの皆さんなど、「日本野球の代表」という想いを持って、緊張感や責任を感じながらプレーしていました。
――第一回WBCでは、途中に予選敗退の危機もありました。予選突破をかけたメキシコ対アメリカの試合は、ご覧になられていましたか?
多村:自力では予選突破を決められない状況だったので、(決勝トーナメントが行われる)サンディエゴに移動して、各々がリラックスして過ごしていたように思います。
僕も外出していましたが、(メキシコが勝利している)試合の途中経過を見て宿舎に戻り、テレビで固唾を飲んで見守っていました。
決勝トーナメント進出が決まった時は、選手がみんな部屋から出てきて、喜びを分かち合ったことを覚えています。
――今、日本を代表する選手になることを目標に、野球に取り組んでいる方もいらっしゃると思いますが、どうすれば野球が上手くなりますか?
多村:まずは目標を持つこと。 技術面ではキャッチボールですかね。ボールを相手の胸に向けて正確に投げられる技術は野球の基本。バッティングにも繋がる大切な技術だと思います。
次に筋力トレーニングです。僕が「強肩」外野手になれたのも、小学校の時から10kgのダンベルを使ってリストを鍛えていたからです。筋量はパワーやスピードを生み出し、「良い選手」になるために欠かせない要素だと思います。
あとは、動体視力のトレーニングや柔軟性を持たせるトレーニング、体幹トレーニングですかね。毎年新しいトレーニングが出てくるので、自分に合うものを取り入れていけば良いのではないでしょうか?
Vol.3へ続く
Vol.1多村仁志が語る長打力を支えたメープル産バットへのこだわり
多村仁志さんプロフィール
神奈川県厚木市出身。横浜高校卒業後の1994年、ドラフト4位で横浜ベイスターズに入団。2004年には、球団史上初となる3割40本100打点を達成。
2006年にはワールド・ベースボール・クラシック(WBC)第1回大会にも出場し、ホームランと打点の日本代表チーム2冠の活躍で初代優勝に貢献した。
2007年には福岡ソフトバンクホークスにトレード移籍。その後、横浜DeNAベイスターズ、中日ドラゴンズ育成選手を経て、2016年に引退。現在は野球解説者として、NPBのみならずMLBの試合の解説も務める。
写真/戸嶋ルミ
多村:これは2015年、横浜DeNAベイスターズを退団した後に使い始めたグラブです。当時は、海外移籍も視野に入れていたので、日の丸の刺繍を入れてもらいました。
外野手は長い距離を走るので、グラブは極力軽く、芯は硬め。そして、素材は、丈夫でしなやかなものを選ぶようにしていましたね。
実際に多村さんにグローブをはめていただいた様子。グローブの人差し指に指を入れないフォームが特徴的だ。
――グローブは、毎年新しいものを使われるのですか?
多村:毎年自主トレ中に担当者の方がいくつか持って来たグラブの中から一つ選び、練習時に自分の手に馴染ませたグローブを、翌年の試合で使っていました。
――続いて、プロ入り前のお話をお伺いしたいと思います。多村さんが、外野手としてのキャリアを歩まれたのは、いつですか?
多村: もともと中学時代は投手と遊撃手をやっていました。 ですが、中学の時に出た大会で、後に横浜高校でチームメートになる斉藤宣之(現東京ヤクルトスワローズスカウト)に本塁打を2本打たれまして、「この打者みたいになりたい」と野手一本に専念するきっかけになりました。
その後、遊撃手として高校に入学しましたが、この時に横浜高校でレギュラーだったのが、のちにシドニーオリンピックでも活躍する平馬(淳 現東芝野球部監督)さん。
「これは越えられないな」と思っていた矢先に渡辺監督(横浜高校)からの要望で外野手に転向しました。高校1年のことです。
――多村さんの高校時代は、どんな選手でしたか?
多村:皆さん意外に思われるかもしれませんが、高校時代は、打撃よりも守備が得意な選手でした。僕がプロ入りできたのも守備が評価されたからだと聞いていますし。
その中でも、一番自信があったのは肩です。当時からホームプレートから投げたボールを、120m先にあるバックスクリーンに当てることができました。外野手転向は、この強肩を生かすと言う監督の意向もありました。
――高校時代、憧れていた選手はいましたか?
多村:当時、ピッツバーグパイレーツの遊撃手としてプレーしていたジェイ・ベル選手ですね。どちらかというと、日本のプロ野球より、メジャーリーグに強い憧れを持っていました。
後に調べたところ、オジー・スミス(当時セントルイス・カージナルス)の13年連続ゴールデングラブ獲得を阻止した方だと知りました。しかも「上手だな」と思った時が、ちょうどそのシーズン(1993年)だったんですよ。「当時の自分の目が確かだった」ことがわかって嬉しかったです(笑)。
――打撃よりも守備にこだわりをお持ちだったんですね?
学生の時は、打撃よりもファインプレーへの憧れが強かったですね。映像で見たメジャーリーグの選手と、同じプレーができるように、日頃から練習に励んでいました。
――メジャーリーグのプレーに魅了された高校時代についてお伺いしましたが、2006年には、第1回WBCの日本代表としてご活躍されていますね。グローブに刺繍が入っている「日の丸」を背負ったときに感じられたことはありますか?
多村:イチローさんをはじめとする錚々たる面々が揃っていたので、まさか自分が日本代表のレギュラーとして、全試合に出るとは思ってもみませんでした(笑)。
初めて行われる大会だったので、この時は、日本で野球を頑張っている少年少女、応援してくださるファンの皆さんなど、「日本野球の代表」という想いを持って、緊張感や責任を感じながらプレーしていました。
――第一回WBCでは、途中に予選敗退の危機もありました。予選突破をかけたメキシコ対アメリカの試合は、ご覧になられていましたか?
多村:自力では予選突破を決められない状況だったので、(決勝トーナメントが行われる)サンディエゴに移動して、各々がリラックスして過ごしていたように思います。
僕も外出していましたが、(メキシコが勝利している)試合の途中経過を見て宿舎に戻り、テレビで固唾を飲んで見守っていました。
決勝トーナメント進出が決まった時は、選手がみんな部屋から出てきて、喜びを分かち合ったことを覚えています。
――今、日本を代表する選手になることを目標に、野球に取り組んでいる方もいらっしゃると思いますが、どうすれば野球が上手くなりますか?
多村:まずは目標を持つこと。 技術面ではキャッチボールですかね。ボールを相手の胸に向けて正確に投げられる技術は野球の基本。バッティングにも繋がる大切な技術だと思います。
次に筋力トレーニングです。僕が「強肩」外野手になれたのも、小学校の時から10kgのダンベルを使ってリストを鍛えていたからです。筋量はパワーやスピードを生み出し、「良い選手」になるために欠かせない要素だと思います。
あとは、動体視力のトレーニングや柔軟性を持たせるトレーニング、体幹トレーニングですかね。毎年新しいトレーニングが出てくるので、自分に合うものを取り入れていけば良いのではないでしょうか?
Vol.3へ続く
Vol.1多村仁志が語る長打力を支えたメープル産バットへのこだわり
多村仁志さんプロフィール
神奈川県厚木市出身。横浜高校卒業後の1994年、ドラフト4位で横浜ベイスターズに入団。2004年には、球団史上初となる3割40本100打点を達成。
2006年にはワールド・ベースボール・クラシック(WBC)第1回大会にも出場し、ホームランと打点の日本代表チーム2冠の活躍で初代優勝に貢献した。
2007年には福岡ソフトバンクホークスにトレード移籍。その後、横浜DeNAベイスターズ、中日ドラゴンズ育成選手を経て、2016年に引退。現在は野球解説者として、NPBのみならずMLBの試合の解説も務める。
写真/戸嶋ルミ