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松山三四六(柔道家・タレント)柔道を通じて伝えたい、日本人が歩むべき道vol.2「柔道の世界から、芸能界へ進出」

世界柔道でのインタビューが話題になっている松山三四六さん(49歳)。現在、柔道家・タレント・ラジオパーソナリティ・歌手・長野大学福祉学部客員教授と、様々な分野で大活躍中だ。柔道で小中高時代に日本一に輝いた三四六さんは、なぜ芸能界に進出したのだろうか?その理由について、熱く語っていただいた。

Icon aff20898 d2d2 431d 8b05 0f3c5e5ae91b 佐久間秀実 | 2019/09/19
松山三四六(柔道家・タレント)柔道を通じて伝えたい、日本人が歩むべき道vol.1

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柔道ではない道を模索した大学時代

ーー三四六さんは、柔道で小中高時代に日本一に輝きました。その後も日本一を目指したのですか?
松山:それから大学に進学するわけですが、僕の場合は柔道枠ではなくて勉強をして一般枠で入ったので、柔道部に入らなくても良かったんです。しかし、周りでは「もちろん入部するだろ」という雰囲気がありました。

僕は宙ぶらりんな感じで、柔道に対する情熱が途切れていっているわけです。しかし柔道から完全には離れずに、体育会のような本格的ではない柔道部みたいな所で続けました。そこでは実力が抜きん出ていたので、学生チャンピオンになると体育会の人たちから「早く上がってこい」と言われましたが、情熱を燃やせるような感じではなかったですからね。20歳の時に2回も膝の手術して世界大会に出れるようなレベルではなかったので、「人生違うことを考えないとまずいな」と思うようになりましたね。

ーーそれで、どのような道に進んだのですか?
松山:3回目の膝の半月板の手術を終えてから20歳以下の全日本選手権に出場すると、3位になりました。でも体はボロボロなので「これ以上は無理だ」と思い、親父からも初めて「お前の柔道は、かわいそうで見ていられない。辞めなさい」と言われたんですよね。僕は悔しくて泣きましたし、「夢って叶わないんだな」と思いました。結局、大学3、4年生の時はやることが何もなくなりましたが、卒業するまでに「人生経験を生かせる職業」は何かと考え、教師が思い浮かんだんですよね。

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教師にやり甲斐を感じるも、芸能界へ進出

ーーなぜ教師が思い浮かんだのですか?
松山:柔道でこれだけの経験を積んでいれば、部活動の先生になった時に「生徒に色んなことを伝えられる」と思ったからなんですよね。社会科教師の免許を取得し、卒業前に教員実習として公立中学校に教えに行きました。
2週間だけでしたが、僕はものすごく人気があり女子中学生からラブレターをもらいましたからね(笑)。校門で僕を待つ女の子がいましたし、最後の授業の日は帰り際に生徒たちに囲まれてしまい大変でした。 

それから15年後に、昔の事務所のマネージャーから「その当時の生徒から連絡がきました。同窓会に『三四六さんに来てほしい』と言っています」 と聞いたので驚きましたね。嬉しかったので集まりに行くと、「お前いたよなー」なんて話しましたし、生徒が「俺たちは三四六さんだけを先生と思っていたから」と言ってくれたので本当に嬉しかったですね(笑)。 

ーー素晴らしい再会を果たしましたね。
松山:その後、僕は女子高で働くことになりました。卒業前に、関西にいる柔道の先輩から電話がきたので「僕は先生になれるかもしれません」と報告をすると、「そんなつまんないことを言うな!芸能人になれ!」と、強く言われたんですよね。

先輩は、その数ヶ月前に僕が素人モノマネ大会に出て優勝したことを覚えていて、「吉本興業が東京に進出するで。東京にでっかい会社作るぞ。」と教えてくれました。それでオーディションを受けたら合格してしまったので、吉本興業に入ることにしましたね。

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松山三四六著者「世界の中で、いちばん柔道を知らない日本人へ」
 


PROFILE 
松山三四六  (まつやま さんしろう) 
タレント、ラジオパーソナリティ、歌手、 柔道家、長野大学福祉学部客員教授 
1970年7月9日生まれ。東京都出身。小学1年生で柔道を始め、小学5年生から全国少年柔道大会で2連覇を達成。明大中野中学在学中に全国中学校柔道大会も制し、オリンピック代表候補として将来を有望視されていた。
しかし、度重なるケガにより、20歳で競技者としての道を断念。1992年、テレビ番組出演をきっかけに吉本興業に入社し、1994年同社を退社。現在、タレント、ラジオパーソナリティ、歌手、作家など幅広く活動。主な作品に「クマンバチと手の中のキャンディ」(文屋)、「ワインガールズ」(ポプラ社)などがある。
一方で、長野大学で社会福祉学部客員教授として教壇に立ち、小中高生や企業を対象とした講演会なども現在500本を超える。もちろん、柔道への情熱は引退後も変わらず、コーチとして畳に立ち、世界柔道選手権大会ではレポーターとしてマイクを握り、選手たちの声をお茶の間に届けている。 

取材協力/コネクト株式会社