片岡洋介の現在地「前編:35歳で引退した理由」
大宮アルディージャ、京都サンガ、ガイナーレ鳥取でプレーしてきた片岡洋介さん。カップ戦含めJリーグで通算300試合以上出場したレジェンドだ。引退した理由や現在の活動について詳しく聞かせて頂いた。
菊池 康平
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2020/12/04
――2017年シーズンをプレーしてから引退されましたよね。
片岡:はい、もうすぐで引退して丸3年になります。
――35歳で引退した理由は?
片岡:申し訳ない話ですが、J3の環境が想像以上だったんです。それまでは大宮アルディージャなどJ1でやってきて、素晴らしい環境でした。
勝負しようと思ってJ3に行ったので、環境の違いには納得できました。
ただ今までは、試合でお客さんや相手選手が自然とモチベーションを上げてくれましたが、それがJ3に行った時にはお客さんも1000人とかですし、相手選手も誰一人として知っている選手がいない。
ある程度、覚悟していたものの、そこに行った瞬間に「俺はここまで選手としての価値が落ちたのか」とちょっと寂しくなってしまったんです。
――J3のチームに移籍してどのくらいのタイミングでそう感じたんですか?
片岡:J3での1試合目でしたね。ここで終わりにするしかないなという覚悟が1試合目で出来ました。2年契約でしたので「2年間はどんなに苦しくてもやり切るぞ!」と決めて戦い、契約満了に伴い引退しました。
――特に大宮アルディージャはJ1の中でも環境が良いと思いますので、ギャップがあったんですね。
片岡:寂しかったし、選手に申し訳なかったです。みんなギラギラしてJ2に行きたいという想いの中、「この環境でよいのかな」と思いながらいる自分はダメだし、その気持ちがある時点で続けちゃいけないんだなと思い、ここで出し切ってすっぱりやめようと決めました。
――35歳までプレー出来た要因は?
片岡:大卒で入り、J1で戦えるなんて思っていなかったんです。1番良くても30歳までかなと漠然と目標にしていました。技術もJ1の中では全然上の方ではないですし。
唯一ぶれなかったのは1対1の守備だけだったんです。
入団して3年目か4年目で「1対1に自信ないな」となっていたら続けられなかったと思いますが、13年間やってきて、1対1の守備への自信は1度もぶれませんでした。
自分はアルディージャの中で誰よりも1対1の守備は強い自信がありましたし、どんなに外国人が来たところで「負けてないぞ!」という芯はぶれなかったので、今思うとその結果が10年以上に渡りJ1で出来た要因ですかね。
――すぐに辞めざるをえない選手もいる中で、長く活躍されたのは本当に凄いと思います。身体が強かったなど他に要因はありますか?
片岡:怪我がなかったのも長くプレーできた要因です。怪我が多いと監督の1年間の構想に入りづらいじゃないですか。
例えば「あいつはどこかのタイミングで膝の痛みがでて、出来なくなるな」などと思われなかったのが良かったです。1ヶ月以上休んだことはほとんどなかったと思います。
――怪我がほぼなかったのは食事やケアをしっかりしていたからですか?
片岡:実は1回も栄養を気にしたことがないんです(笑)食べたい物を食べるのが自分のスタイルでした。
グアムキャンプで冨田大介(現:水戸ホーリーホックのクラブリレーションコーディネーター)さんと一緒の部屋で、練習が終わってコーラを飲みたくて一気飲みするわけですよ。その後に昼飯に行くのですが、全然食べれないんです。
「それはそうだよな」と冨田さんにいつも言われるんですが、「お前は走りになると1番や2番手で走ってるし」と言われ、そのスタイルをくずしたことないです。
――たくましいですね!
片岡:神経質ではないのかもしれません(笑)
――続いてギアの話を聞かせてください。1番初めに履いたスパイクは?
片岡:初めて親に買ってもらったのが、地元のスポーツ用品店のワゴンの中にあったアディダスの名前もわからないスパイクです。
3000円くらいでした。本当はラモスが履いていた黄色いアシックスのスパイクが欲しかったのですが、家庭の事情もあり(笑)
あと、はじめてどうしても買ってほしいと親にお願いしたのが、高3の時に「選手権なんでパラメヒコを買って欲しい」と頼み込み買ってもらいました。それまで何を履いていたのか覚えていないんです。
他の選手のスパイクが羨ましかったですが、親に2万円も払ってもらうという考え方が無かったので、ワゴンにある安いスパイクをずっと使っていました。
高3でパラメヒコを買ってもらったのが本当に嬉しかったのは覚えていますよ。
――大学の時は何を履いていましたか?
片岡:たしか大学2年の頃にプーマさんから提供頂いたんです。そこから引退するまで16年間ずっとプーマを履いていました。
――パラメヒコ以外に良かったモデルは?
片岡:守備で僕が大事にしていたのは、速い選手を相手にするので、いかに軽いスパイクを履くかという事でした。
スパイクが重かったら、そのぶん重さがのってると思う考えでしたので、なるべく軽いスパイクを選んでいました。
また、ソールのポイントは踏み込みの時にしっかり踏ん張れるミックスソールで出来るスパイクを常に履いていました。
――他にこだわっていた点は?
片岡:スパイクは進化をすればそれだけ性能も上がると思っているので、常に新しいスパイクを履きたいと思っていました。
新しいカラーが出たらそのぶん自分の気持ちも高まるので、新しい色を履いていました。
――色の話がでましたが、カラーへのこだわりは?
片岡:黒色は絶対に履きたくなかったんです。夏場に履くと熱いので。 あとは、自分は守備の選手でプレー的に目立たないので、スパイクくらい派手なのを履ければと常に思っていました。
後編に続く
インタビュー&写真:菊池康平
片岡:はい、もうすぐで引退して丸3年になります。
――35歳で引退した理由は?
片岡:申し訳ない話ですが、J3の環境が想像以上だったんです。それまでは大宮アルディージャなどJ1でやってきて、素晴らしい環境でした。
勝負しようと思ってJ3に行ったので、環境の違いには納得できました。
ただ今までは、試合でお客さんや相手選手が自然とモチベーションを上げてくれましたが、それがJ3に行った時にはお客さんも1000人とかですし、相手選手も誰一人として知っている選手がいない。
ある程度、覚悟していたものの、そこに行った瞬間に「俺はここまで選手としての価値が落ちたのか」とちょっと寂しくなってしまったんです。
――J3のチームに移籍してどのくらいのタイミングでそう感じたんですか?
片岡:J3での1試合目でしたね。ここで終わりにするしかないなという覚悟が1試合目で出来ました。2年契約でしたので「2年間はどんなに苦しくてもやり切るぞ!」と決めて戦い、契約満了に伴い引退しました。
――特に大宮アルディージャはJ1の中でも環境が良いと思いますので、ギャップがあったんですね。
片岡:寂しかったし、選手に申し訳なかったです。みんなギラギラしてJ2に行きたいという想いの中、「この環境でよいのかな」と思いながらいる自分はダメだし、その気持ちがある時点で続けちゃいけないんだなと思い、ここで出し切ってすっぱりやめようと決めました。
――35歳までプレー出来た要因は?
片岡:大卒で入り、J1で戦えるなんて思っていなかったんです。1番良くても30歳までかなと漠然と目標にしていました。技術もJ1の中では全然上の方ではないですし。
唯一ぶれなかったのは1対1の守備だけだったんです。
入団して3年目か4年目で「1対1に自信ないな」となっていたら続けられなかったと思いますが、13年間やってきて、1対1の守備への自信は1度もぶれませんでした。
自分はアルディージャの中で誰よりも1対1の守備は強い自信がありましたし、どんなに外国人が来たところで「負けてないぞ!」という芯はぶれなかったので、今思うとその結果が10年以上に渡りJ1で出来た要因ですかね。
――すぐに辞めざるをえない選手もいる中で、長く活躍されたのは本当に凄いと思います。身体が強かったなど他に要因はありますか?
片岡:怪我がなかったのも長くプレーできた要因です。怪我が多いと監督の1年間の構想に入りづらいじゃないですか。
例えば「あいつはどこかのタイミングで膝の痛みがでて、出来なくなるな」などと思われなかったのが良かったです。1ヶ月以上休んだことはほとんどなかったと思います。
――怪我がほぼなかったのは食事やケアをしっかりしていたからですか?
片岡:実は1回も栄養を気にしたことがないんです(笑)食べたい物を食べるのが自分のスタイルでした。
グアムキャンプで冨田大介(現:水戸ホーリーホックのクラブリレーションコーディネーター)さんと一緒の部屋で、練習が終わってコーラを飲みたくて一気飲みするわけですよ。その後に昼飯に行くのですが、全然食べれないんです。
「それはそうだよな」と冨田さんにいつも言われるんですが、「お前は走りになると1番や2番手で走ってるし」と言われ、そのスタイルをくずしたことないです。
――たくましいですね!
片岡:神経質ではないのかもしれません(笑)
――続いてギアの話を聞かせてください。1番初めに履いたスパイクは?
片岡:初めて親に買ってもらったのが、地元のスポーツ用品店のワゴンの中にあったアディダスの名前もわからないスパイクです。
3000円くらいでした。本当はラモスが履いていた黄色いアシックスのスパイクが欲しかったのですが、家庭の事情もあり(笑)
あと、はじめてどうしても買ってほしいと親にお願いしたのが、高3の時に「選手権なんでパラメヒコを買って欲しい」と頼み込み買ってもらいました。それまで何を履いていたのか覚えていないんです。
他の選手のスパイクが羨ましかったですが、親に2万円も払ってもらうという考え方が無かったので、ワゴンにある安いスパイクをずっと使っていました。
高3でパラメヒコを買ってもらったのが本当に嬉しかったのは覚えていますよ。
――大学の時は何を履いていましたか?
片岡:たしか大学2年の頃にプーマさんから提供頂いたんです。そこから引退するまで16年間ずっとプーマを履いていました。
――パラメヒコ以外に良かったモデルは?
片岡:守備で僕が大事にしていたのは、速い選手を相手にするので、いかに軽いスパイクを履くかという事でした。
スパイクが重かったら、そのぶん重さがのってると思う考えでしたので、なるべく軽いスパイクを選んでいました。
また、ソールのポイントは踏み込みの時にしっかり踏ん張れるミックスソールで出来るスパイクを常に履いていました。
――他にこだわっていた点は?
片岡:スパイクは進化をすればそれだけ性能も上がると思っているので、常に新しいスパイクを履きたいと思っていました。
新しいカラーが出たらそのぶん自分の気持ちも高まるので、新しい色を履いていました。
――色の話がでましたが、カラーへのこだわりは?
片岡:黒色は絶対に履きたくなかったんです。夏場に履くと熱いので。 あとは、自分は守備の選手でプレー的に目立たないので、スパイクくらい派手なのを履ければと常に思っていました。
後編に続く
インタビュー&写真:菊池康平