「バッジョに憧れてディアドラを履いていた」 五郎丸歩(ラグビー日本代表)
五郎丸歩がキングギアだけに語ったスパイク観。
多羅 正崇
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2016/06/03
五郎丸歩のスパイク観。
◆五郎丸歩(ラグビー日本代表)
2015年秋に行われたラグビーのワールドカップ(W杯)イングランド大会。エディー・ジョーンズ・ヘッドコーチ(HC)率いるラグビー日本代表は、日本ラグビー史上初となるW杯1大会3勝を挙げ、国内外に大きなムーブメントを巻き起こした。1次リーグ初戦で南アフリカを撃破した快挙(34-32)は、世界を驚嘆させ、W杯後の日本における「80年代以来のラグビーブーム」の発端となった。
そんなエディー・ジャパンの快挙を支えた立役者のひとりが、1次リーグで個人2位となる計58得点を挙げたFB五郎丸歩=ヤマハ発動機=だ。今回KING GEAR(キングギア)では、ジャパン不動のフルバックにスパイクにまつわる独占取材を敢行。後編ではスパイク遍歴からスパイクの手入れ、サッカーとの意外な関わりまで、多岐に渡ったインタビューをお届けする。
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五郎丸歩選手(以下、五郎丸):小学4年生から(小学校を)卒業するまではしっかりサッカーをやっていました。その時は、バッジョ(元サッカーイタリア代表)とかが有名だったんで、ディアドラとかを履いていましたね。
――ブログで澤登さん(元サッカー日本代表)が憧れの選手だったと書かれていました。
五郎丸:ボクは兄弟が3人いて、下に妹、上に兄貴が2人いるんですけど、兄2人とJリーグが開幕した時に「どのチームを取るか」みたいなことをやって。兄は王道のヴェルディを取って、僕は清水エスパルスを取って。
――なぜ清水エスパルスのファンになることを選んだのですか?(笑)
五郎丸:わからないです(笑)
――当時エスパルスといえば澤登さんでしたね。
五郎丸:澤登さんとか、トニーニョとか、シジマールとか。まあ、みんなシジマールの真似をしてましたけどね(笑)
イタリアの至宝ロベルト・バッジョの愛用スパイクは一貫してディアドラだった。バッジョに憧れてディアドラを履き、遠く九州の地から清水エスパルスに声援を送るサッカー少年だった五郎丸は、その後運命に導かれるようにラグビーへと回帰する。高校は地元福岡を離れ、兄(亮=コカコーラ=)を追って佐賀県随一の強豪校・佐賀工業高校に進学した。
――ラグビーを始めたのはいつ頃ですか?
五郎丸:3歳からラグビーは始めていて、小学4年生から卒業するまではサッカー1本に切り替えて、また中学校ではラグビー1本に切り替えた、という感じですね。
――佐賀工時代に履いていたスパイクは?
五郎丸:モレリア(ミズノ)が多かったですね。(スパイクは)ビニールテープでぐるぐる巻きにしてましたね。先っぽがよく破けてたんで。
――学生ラガーマンにはどんなスパイク選びをオススメしますか?
五郎丸:環境によって違いますね。たとえば高校だと土のグラウンドが多かったりするので、一概に何がいいとは言えないです。でもやっぱり靴一足でパフォーマンスが上がるのであれば、そこに投資するのはアリなんじゃないかな、というのは、社会人になって思いますね。いまのスパイクは性能がいいんで、すぐには壊れないですよ。特に社会人は芝生の上でしかやらないので。
矢継ぎ早にする本稿筆者の質問に、嫌な顔ひとつせず淡々と答えていく。身長185センチ、体重100キロ(足のサイズは28センチ)。その体格以上に大きく見えたのは、W杯後のベストフィフティーンにまで選ばれたスーパースターの風格か。
しかしそんなポーカーフェイスの奥に隠された別の姿があるとしたら―。そんな意図から、インタビューの最後にひとつ、風変わりな質問を投げてみた。返ってきたのは九州男児らしい無骨な答えだった。
――スパイクに新機能を付けられるとします。どんな機能を付けたいですか?
五郎丸:新機能……。なんだろう……。あんまり深く考えたことはないですね。
――サッカースパイクの「プレデター」は、過去に反発力のあるシュータンを付けたことで、キックの威力が増しました。
五郎丸:でも微々たるものですよね。それだったら、ラグビー選手であれば筋トレをすると思います。
あまりに正直すぎる返答だった。
だが、ラガーマンはこうでなくてはならない。
ふと思い出されたのはW杯1次リーグのアメリカ戦後のインタビューである。マン・オブ・ザ・マッチに選ばれた五郎丸はチームメイトを想って眉間をきつく押さえ、涙した。あの時も我々はポーカーフェイスの下に隠された彼の素顔を垣間見た。
インタビュー終了後、彼は爽やかに会釈し、その場を後にした。
一点の曇りもなく、いい男である。
◇五郎丸歩(ごろうまる・あゆむ) 1986年3月1日、福岡県生まれ。3歳からラグビーを始め、小4からは一時サッカーに転向。福岡老司中時代に筑紫丘RCジュニアスクールでラグビーを再開。佐賀工業高時代は3年連続花園出場。早大を経て、ヤマハ発動機ジュビロに所属。2014-15シーズンにはヤマハ初の日本選手権初優勝に貢献した。日本代表57キャップ。185センチ、100キロ。