本田泰人が激白!Vol.1「サッカーをやれ。これからはサッカーだ」
プロ野球選手を目指していた本田泰人少年に、父親が唐突にそう言った。この一言がきっかけで、鹿島アントラーズ、日本代表で活躍するサッカー選手、本田泰人が誕生することとなった。
佐久間秀実
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2017/05/10
――サッカーを始めたきっかけから教えていただけますか。
本田:僕は福岡県北九州市出身で、小学校低学年の時は野球少年だったんです。当時、プロサッカーリーグがなく、兄がやっている影響もありソフトボールを始めました。
並行してリトルリーグにも入って、プロ野球選手を目指していました。サッカーに関しては、運動神経が良かったので、友人のチームの人数が足りない時に誘われて、遊び感覚でやっていました。
――サッカーを本格的に開始したのはいつからですか?
本田:小学6年生の時です。父親が出張族で家にいないことが多かったのですが、少し落ち着いて、話をする機会が増えてきた頃でした。
その時に「スポーツは何をやってるんだ?」と聞かれたので、「野球。プロ野球選手になりたいんだ」と言うと「お前、今日から野球はやらなくていい。サッカーをやれ。これからはサッカーだ」と言われ、なぜかという理由をまったく理解できないまま、サッカーを始めるようになりました(笑)
――物凄いお父様ですね。
本田:北九州市は野球とサッカーが盛んな地域で、どちらも打ち込むには素晴らしい環境だったんです。僕の両親は共に背が大きくなかったので、父の中には『野球選手は体が大きくないと大成しない』という考えがあったようで、サッカーなら小さくても可能性があるのではと思ったようです。
当時の日本のサッカートップリーグであるJSL(日本サッカーリーグ)には、本田技研、トヨタ、日産、三菱などの大企業のチームばかりだったので、サッカーを頑張れば就職できるという魅力も、父にはあったみたいです。
――本格的にサッカーを始めてみて、どうでしたか?
本田:小6の途中からサッカーへの転向したのと、入ったチームが強豪だったので練習について行くのが大変でした。それから高校(注・名門の帝京高校)に入るまでの約3年半、父はスパルタでした。
ブリーダーをしていた父と、毎朝山頂にある公園までの上り坂3キロを、父が運転する軽トラックの後ろをドーベルマンと一緒に猛ダッシュして行きました。公園につくとサッカーの練習をして、下り坂を走って家に帰ってから、ご飯を食べて学校に行くのが日課になっていました(笑)
――当時、好きなサッカー選手はいましたか?
本田:鮮明に覚えているのは、1982年のW杯スペイン大会でジーコとマラドーナが対戦し、マラドーナが退場したブラジル対アルゼンチン戦です。ジーコは4人のカルテットにより力を発揮し、マラドーナは1人だけずば抜けていました。サッカーを始めたばかりの頃でしたし、2人からは物凄い衝撃を受けたのを覚えています。
――初めて履いたスパイクは何でしたか?
本田:プーマのマラドーナ使用モデルです。サッカーを真面目にやるようになってから、父は僕が履きたいものを買ってくれました。強制的にサッカーをやらせたので、お金をかけてくれたんだと思います。
――マラドーナモデルはどうでしたか?
本田:横幅が広く、足幅の細い自分には紐を強く結んでもフィットしなかったのですが、壊れても同じ物を履き続けました。それを繰り返しているうちに、足に合う物が欲しくなり、お店で試し履きをして「これが合う!」と思ったのがアディダスでした。
そのスパイクは取替え式の白ベースで、赤の三本線が入っているポイント式だったのですが、あまりにカッコ良過ぎて、硬い土のグラウンドでも無理矢理履いていました(笑)
――大のお気に入りだったのですね。
本田:ポイントが6本しかないスパイクだったので、足裏は常に痛かったんですけどね(笑)。その時父は「スパイクの外側が壊れない限り、ポイントを取り替えればずっと履けるな」と言っていた記憶があります。
――サッカーを始めた時のポジションは?
本田:僕は足が速くて器用だということで、最初はスイーパーをやらされました。なかなか点が入らない試合があり、途中から前のポジションに移動してゴールを決めて、それからはFWをやるようになり、どんどんサッカーが楽しくなっていきましたね。
――中学生時代はどうでしたか?
本田:本格的にサッカーに打ち込みたかったので、小学生の全国大会に出場しているチームの人達が進学する中学校に入るため、北九州市内で引っ越しをしました。サッカー部に入ったのですが、レベルが高くてついて行くのに必死でしたよ。
サッカー部の練習が終わって帰宅してからがまた大変で、一生懸命な父ととにかく練習をしました。父の車がある車庫の中にはゴールネットが張られ、ひたすらボールを蹴っていました。それが毎日でしたから、凄かったですね(笑)
(第2話へ続く) http://king-gear.com/articles/343
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並行してリトルリーグにも入って、プロ野球選手を目指していました。サッカーに関しては、運動神経が良かったので、友人のチームの人数が足りない時に誘われて、遊び感覚でやっていました。
――サッカーを本格的に開始したのはいつからですか?
本田:小学6年生の時です。父親が出張族で家にいないことが多かったのですが、少し落ち着いて、話をする機会が増えてきた頃でした。
その時に「スポーツは何をやってるんだ?」と聞かれたので、「野球。プロ野球選手になりたいんだ」と言うと「お前、今日から野球はやらなくていい。サッカーをやれ。これからはサッカーだ」と言われ、なぜかという理由をまったく理解できないまま、サッカーを始めるようになりました(笑)
――物凄いお父様ですね。
本田:北九州市は野球とサッカーが盛んな地域で、どちらも打ち込むには素晴らしい環境だったんです。僕の両親は共に背が大きくなかったので、父の中には『野球選手は体が大きくないと大成しない』という考えがあったようで、サッカーなら小さくても可能性があるのではと思ったようです。
当時の日本のサッカートップリーグであるJSL(日本サッカーリーグ)には、本田技研、トヨタ、日産、三菱などの大企業のチームばかりだったので、サッカーを頑張れば就職できるという魅力も、父にはあったみたいです。
――本格的にサッカーを始めてみて、どうでしたか?
本田:小6の途中からサッカーへの転向したのと、入ったチームが強豪だったので練習について行くのが大変でした。それから高校(注・名門の帝京高校)に入るまでの約3年半、父はスパルタでした。
ブリーダーをしていた父と、毎朝山頂にある公園までの上り坂3キロを、父が運転する軽トラックの後ろをドーベルマンと一緒に猛ダッシュして行きました。公園につくとサッカーの練習をして、下り坂を走って家に帰ってから、ご飯を食べて学校に行くのが日課になっていました(笑)
――当時、好きなサッカー選手はいましたか?
本田:鮮明に覚えているのは、1982年のW杯スペイン大会でジーコとマラドーナが対戦し、マラドーナが退場したブラジル対アルゼンチン戦です。ジーコは4人のカルテットにより力を発揮し、マラドーナは1人だけずば抜けていました。サッカーを始めたばかりの頃でしたし、2人からは物凄い衝撃を受けたのを覚えています。
――初めて履いたスパイクは何でしたか?
本田:プーマのマラドーナ使用モデルです。サッカーを真面目にやるようになってから、父は僕が履きたいものを買ってくれました。強制的にサッカーをやらせたので、お金をかけてくれたんだと思います。
――マラドーナモデルはどうでしたか?
本田:横幅が広く、足幅の細い自分には紐を強く結んでもフィットしなかったのですが、壊れても同じ物を履き続けました。それを繰り返しているうちに、足に合う物が欲しくなり、お店で試し履きをして「これが合う!」と思ったのがアディダスでした。
そのスパイクは取替え式の白ベースで、赤の三本線が入っているポイント式だったのですが、あまりにカッコ良過ぎて、硬い土のグラウンドでも無理矢理履いていました(笑)
――大のお気に入りだったのですね。
本田:ポイントが6本しかないスパイクだったので、足裏は常に痛かったんですけどね(笑)。その時父は「スパイクの外側が壊れない限り、ポイントを取り替えればずっと履けるな」と言っていた記憶があります。
――サッカーを始めた時のポジションは?
本田:僕は足が速くて器用だということで、最初はスイーパーをやらされました。なかなか点が入らない試合があり、途中から前のポジションに移動してゴールを決めて、それからはFWをやるようになり、どんどんサッカーが楽しくなっていきましたね。
――中学生時代はどうでしたか?
本田:本格的にサッカーに打ち込みたかったので、小学生の全国大会に出場しているチームの人達が進学する中学校に入るため、北九州市内で引っ越しをしました。サッカー部に入ったのですが、レベルが高くてついて行くのに必死でしたよ。
サッカー部の練習が終わって帰宅してからがまた大変で、一生懸命な父ととにかく練習をしました。父の車がある車庫の中にはゴールネットが張られ、ひたすらボールを蹴っていました。それが毎日でしたから、凄かったですね(笑)
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