『釜本邦茂』サッカー日本代表歴代最高得点者 第1話「自分でスパイクを作っていたよ」
サッカー日本代表選手として歴代1位となる75得点をマークし、メキシコオリンピックでは日本が銅メダルを獲得する原動力となり得点王にも輝いた釜本邦茂氏。日本人サッカー選手として史上最高との呼び声高い釜本氏に、サッカーを始めた時からのお話をうかがってみた。
佐久間秀実
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2017/10/31
――いつサッカーを始められたのですか。
釜本:もう語りつくされたことだけど、野球をするつもりでいたんだよね。小学校を卒業する時に、先生から中学に行ったら「何のスポーツをするんだ?」と言われ、野球をやる予定であることを伝えると、「野球はアメリカと日本でしかやっていない。サッカーは世界中でやっているし、世界中どこにでも行けるから、サッカーをやったらどうか?」と言われて、それが良いと思い、中学生になってからサッカーをやったね。
――その頃から世界を意識していたのですね。
釜本:世界に旅行ができるという魅力がサッカーにあったね。サッカーは、野球と違ってオリンピック競技でね。小学生の時は、オリンピックが何であるのか分からなかったけど(笑)。
――初めて履いたサッカーシューズを覚えていますか。
釜本:中学生の時、サッカーシューズを履いていたのかな?サッカーシューズはなかったような、覚えてないね。高校に入ってからは、履いたね。
――なぜ山城高校に進学をされたのですか。
釜本:山城高校は当時、商業科の高校で、親父に「商売人の息子でもないのに、なぜ簿記を勉強しに行くんや!」と怒られたけど、サッカーをやれる高校が他にないから山城に入ったね。
――その頃からポジションはFWですか。
釜本:最初からFW。昔のポジションなんてのは、足が速いのが前のポジションで、どんくさいのは後だから。FWで、ボールをドーンと蹴ってダーッと走っていくんだけど、僕は足が速いし、中学校のポジションはウイング、3トップのサイドだったよ。
――練習はどうでしたか。
釜本:厳しかったよ。
――高校時に履かれたサッカーシューズについて教えていただけますか。
釜本:京都の飯田さんという靴のお店に行って、自分でスパイクを作っていたよ。普通の革靴に、ノミみたいなポイントを買ってきて、靴屋で金槌で釘を刺してトントントントン自分達で打っていたんだよ。釘が足に当たると痛いから曲げていたね。土のグランドで練習するからポイントはすぐ擦り減るし、靴には釘が沢山残っている状態だったよ(笑)。
――貴重な経験をされてますね。当時、どれくらいのペースで履き替えていましたか。
釜本:スパイクは1足だけ持っていたけど、ボールを蹴るのが上手かったからあまり壊れなかったよ。土を蹴らないでボールを蹴っていたけど、ソールが剥がれたことはあったよね。
――高校時代にユース日本代表選手となり、初めて日の丸を背負った時の心境はどうでしたか。
釜本:タイ、マレーシア、シンガポールなどに行けたのは優越感があったよね。海外を観るという夢が実現したわけだから。当時は、今みたいに簡単に海外に行けないからね。
――海外は、どうでしたか。
釜本:風習と景色は違うなーと思ったくらいだよ(笑)。食事は上手いことはないけど、食べないとサッカーをやれないから何でも食べてたよ。世界で戦うためには、胃腸など身体が強くなければ駄目だね。
今の選手は、世界で戦っているのかな?日本からコックさん連れて行って、ちゃんとした物を食べて恵まれてるね。自分の時は、現地調達だったね。マレーシアに行った時に、食堂の裏を見たら何とも言えん景色で食べたくなかったけど、食べなければ動けないから大変だったよ。
今では国際試合は48時間間を空けなければならないとなっているけど、昔は3日連ちゃんで試合してたで。バンコクアジア大会の時は、毎日試合や。大学生の時に10日で6試合やったこともあったよ。全部出たのは僕を入れた3人だけ。終わったら身体がガクッときたし、最後の方は食事を食べれなかったよ。サラサラのご飯をスープに入れて飲み込むだけや。バナナは食ってたよ(笑)。
第2話へ続く。
■プロフィール
釜本邦茂(かまもと くにしげ)
1944年 京都出身
元サッカー日本代表
京都文教大学 客員教授
早稲田大学1年生で東京オリンピックに出場。大学リーグ4年連続得点王。卒業後ヤンマーディーゼルに入社。日本リーグ通算202得点。1968年メキシコオリンピックで銅メダル獲得、7得点。日本代表国際Aマッチ75得点(歴代1位)。国際Aマッチ得点率0.98は、世界歴代1位。現役引退後ヤンマーディーゼル・ガンバ大阪で監督を歴任。1995年参議院議員に当選。1998年から2008年7月まで財団法人 日本サッカー協会の副会長を務める。2005年には第一回サッカー殿堂に最年少で選出された。2006年には、京都文教大学の客員教授に就任。現役引退後から今日まで全国各地で既に1000回を超えるサッカー教室を開催し、のべ500,000人を超える子供たちを指導している。その中には中田英寿、中村俊輔、川口、宮本、稲本、大黒など、数多くの子供たちが後に日本代表選手へと成長している。2014年5月に旭日中綬章受章。
取材写真/佐久間秀実
釜本:もう語りつくされたことだけど、野球をするつもりでいたんだよね。小学校を卒業する時に、先生から中学に行ったら「何のスポーツをするんだ?」と言われ、野球をやる予定であることを伝えると、「野球はアメリカと日本でしかやっていない。サッカーは世界中でやっているし、世界中どこにでも行けるから、サッカーをやったらどうか?」と言われて、それが良いと思い、中学生になってからサッカーをやったね。
――その頃から世界を意識していたのですね。
釜本:世界に旅行ができるという魅力がサッカーにあったね。サッカーは、野球と違ってオリンピック競技でね。小学生の時は、オリンピックが何であるのか分からなかったけど(笑)。
――初めて履いたサッカーシューズを覚えていますか。
釜本:中学生の時、サッカーシューズを履いていたのかな?サッカーシューズはなかったような、覚えてないね。高校に入ってからは、履いたね。
――なぜ山城高校に進学をされたのですか。
釜本:山城高校は当時、商業科の高校で、親父に「商売人の息子でもないのに、なぜ簿記を勉強しに行くんや!」と怒られたけど、サッカーをやれる高校が他にないから山城に入ったね。
――その頃からポジションはFWですか。
釜本:最初からFW。昔のポジションなんてのは、足が速いのが前のポジションで、どんくさいのは後だから。FWで、ボールをドーンと蹴ってダーッと走っていくんだけど、僕は足が速いし、中学校のポジションはウイング、3トップのサイドだったよ。
――練習はどうでしたか。
釜本:厳しかったよ。
――高校時に履かれたサッカーシューズについて教えていただけますか。
釜本:京都の飯田さんという靴のお店に行って、自分でスパイクを作っていたよ。普通の革靴に、ノミみたいなポイントを買ってきて、靴屋で金槌で釘を刺してトントントントン自分達で打っていたんだよ。釘が足に当たると痛いから曲げていたね。土のグランドで練習するからポイントはすぐ擦り減るし、靴には釘が沢山残っている状態だったよ(笑)。
――貴重な経験をされてますね。当時、どれくらいのペースで履き替えていましたか。
釜本:スパイクは1足だけ持っていたけど、ボールを蹴るのが上手かったからあまり壊れなかったよ。土を蹴らないでボールを蹴っていたけど、ソールが剥がれたことはあったよね。
――高校時代にユース日本代表選手となり、初めて日の丸を背負った時の心境はどうでしたか。
釜本:タイ、マレーシア、シンガポールなどに行けたのは優越感があったよね。海外を観るという夢が実現したわけだから。当時は、今みたいに簡単に海外に行けないからね。
――海外は、どうでしたか。
釜本:風習と景色は違うなーと思ったくらいだよ(笑)。食事は上手いことはないけど、食べないとサッカーをやれないから何でも食べてたよ。世界で戦うためには、胃腸など身体が強くなければ駄目だね。
今の選手は、世界で戦っているのかな?日本からコックさん連れて行って、ちゃんとした物を食べて恵まれてるね。自分の時は、現地調達だったね。マレーシアに行った時に、食堂の裏を見たら何とも言えん景色で食べたくなかったけど、食べなければ動けないから大変だったよ。
今では国際試合は48時間間を空けなければならないとなっているけど、昔は3日連ちゃんで試合してたで。バンコクアジア大会の時は、毎日試合や。大学生の時に10日で6試合やったこともあったよ。全部出たのは僕を入れた3人だけ。終わったら身体がガクッときたし、最後の方は食事を食べれなかったよ。サラサラのご飯をスープに入れて飲み込むだけや。バナナは食ってたよ(笑)。
第2話へ続く。
■プロフィール
釜本邦茂(かまもと くにしげ)
1944年 京都出身
元サッカー日本代表
京都文教大学 客員教授
早稲田大学1年生で東京オリンピックに出場。大学リーグ4年連続得点王。卒業後ヤンマーディーゼルに入社。日本リーグ通算202得点。1968年メキシコオリンピックで銅メダル獲得、7得点。日本代表国際Aマッチ75得点(歴代1位)。国際Aマッチ得点率0.98は、世界歴代1位。現役引退後ヤンマーディーゼル・ガンバ大阪で監督を歴任。1995年参議院議員に当選。1998年から2008年7月まで財団法人 日本サッカー協会の副会長を務める。2005年には第一回サッカー殿堂に最年少で選出された。2006年には、京都文教大学の客員教授に就任。現役引退後から今日まで全国各地で既に1000回を超えるサッカー教室を開催し、のべ500,000人を超える子供たちを指導している。その中には中田英寿、中村俊輔、川口、宮本、稲本、大黒など、数多くの子供たちが後に日本代表選手へと成長している。2014年5月に旭日中綬章受章。
取材写真/佐久間秀実