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南米・Jリーグ・欧州で戦ってきた松原良香の現在地 Vol.3

Jリーグではジュビロ磐田を皮切りに複数のチームで活躍し、ウルグアイ・クロアチア・スイスでもプレー経験のある松原良香さん。「国内外でどんなキャリアを歩んできたのか?そして現在はどのような活動をされているのか?」じっくり聞かせて頂いた。

Icon 16466945 810048175800857 1247399717 n 菊池 康平 | 2020/04/08
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――日本に比べたら当たり前ですけど、ウルグアイは貧しい国ですよね。   

松原 はい。ただ、貧しい国ですけど、みんな明るくて元気で楽しく、笑顔が多い国です。また、日本と比べて教育のレベルが違います。もちろん仕組みも違いますが、学校の先生のレベルも違います。

ウルグアイには基本的にヨーロッパの人たちが流れてきているので、イタリアンスクールとか、ドイツスクールとか、ブリティッシュなど色々あるんです。   

そういうインターナショナルスクールに、サッカー選手などのお金がある人は入れるんです。

そうじゃない人たちは、パブリック(公立)に行きます。パブリックの学校はインターナショナルスクールに比べると、先生のレベルが落ちますし、貧しいから家を助けるために学校へ行く時間はそっちのけの子どもが多くいます。

あまり教育を受けていないからか、平気で言っちゃいけない言葉を言うんです。こっちが嫌がるような言葉とか。僕もさんざん言われてきました。   

食べているもの、例えばオレンジの皮や種をピッと外へ投げたり、ふざけて人にぶつけたりするんです。僕の住んでいたところが特にそういう地域だったので、朝からウイスキーを飲んで酔っ払っている人が日常的にいました。

あまり日本では目にしないような光景や言えないようなことも多々ありました。   

――そんなウルグアイで1年プレーされてから、ジュビロに入るじゃないですか。ウルグアイに比べたら練習の感覚などはどうでしたか?    

松原 当時、ウルグアイで1年やってきたという自信はありました。しかし、過信もあったかもしれません。僕の方が上手い、と。

「俺はウルグアイで約1年だけどやってきたんだから見てろよ」と思っていました。   

でもある意味、それも大事なことだとは思いますが、自分の置かれている状況や自分のレベルなど、自分自身を客観的にみた上での行動や・言動ではなかったと反省しています。

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――1年ぶりに帰国してJリーグでプレーして何を感じましたか?
  

松原 テレビでたまに流れていたので、ウルグアイにも日本の情報が入っていました。

アトランタオリンピックに向けたチームの立ち上げもその頃にあり、ゾノ(前園真聖)や平野(孝)や松波(正信)などJリーグで活躍している人が選ばれていたのを、テレビで見ていました。   

みんなJリーグの試合で勝ったら勝利給をもらって、高級車に乗ったり、ブランド物を身に着け始めたりしていて、「あれ、みんな変わっちゃったな、プロはこうなるんだな」と思ったのを覚えてます。周りからの見られ方や扱われ方が、がらりと変わっていました。

帰国して日本でプレーするようになると、当時のJリーグはかなり盛り上がっていたので、試合が楽しくてしょうがなかったです。特にゴールを決めチームが勝ったときは最高でした。   

――当時のJリーガーやアトランタオリンピックメンバーは日本中で大人気でしたよね。   

松原 そうなんです。行くところ行くところで、ファンが沢山いました。   

――当時はどの試合も超満員でチケットも買えませんでしたよね

松原 出待ちが多く、街でもよく声をかけられ、急にプロのスター選手になったみたいに感じました。僕は、オリンピックを見据えた代表のメンバーの中で、1年間はJリーグでプレーしていないのに唯一選ばれた選手だったんです。   

間違いなくみんな僕のことはわかるとは思うけれど、「一年間、こいつJリーグでやっていないのに呼ばれたのか」と思われているかもしれないと、そこは少し気にしていました。   

でも自信はすごくあったので、早く試合をしたかったし、アピールしてやろうという気持ちがすごくありました。

オリンピックチームを立ち上げて最初の、マレーシアでの親善試合で点を取りました。相手はデンマーク代表だったと思います。   

あとはどこだか忘れましたが、2点くらい取ったのは覚えています。自分が一番点を取ったので、最初のつかみは良かったと思います。「良香は点を取るな、結果を出せるな」と。やはり、最初が肝心なんです。  

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――最初の印象が良ければ、もし次が少し悪くても「調子悪いだけかな」と思われますしね。   

松原 そうですね。ジュビロでプレーした頃もそうでしたが、監督交代をした一発目に勝つかどうか大事です。

これが移籍した選手や監督も同じです。後にSC相模原で監督をやった時も一発目で勝ったので、波に乗れました。結果を出し、周りから信頼されることは最も重要です。
  

――そうですよね。逆に最初の印象が悪いと悪循環になってしまいますもんね。ジュビロの一年目は7点でしたっけ?   

松原 はい、15試合くらい出て7点でした。先発は数試合だったので、ゴールを決める確率は高かったです。   

――順調に結果を残したんですね。二年目はオフト監督のせいではないとは思いますけれど出場機会が減りましたよね。   

松原 1年目はゴールを多く決めたので2年目はもっとやれる自信があり、すごく楽しみにしていました。

しかし、出場機会が少なく悔しい毎日でしたね。あの時はいろんな要素があったと思いますが。   当時は、「なんでこの人はこういう接し方なんだ?」とか「なんでなの?」というクエスションがいっぱいありました。

「ゴールを決めているのに、なんで俺が出られないの?なんで別の人が出るの?」と思いながらプレーしていました。   

南米では点を取ったり、得点に絡むプレーをしたりと結果を出すか出さないかで評価されます。結果を出した選手が上に登っていきます。   

日本の場合は結果を出さなくても、また出られるということかあるんです。そこは今でも疑問に思うことが多々あります。   

オフト監督の選手起用の考え方がよくわからなかったんです。でも山本昌邦さんらコーチに助けられました。 

今となっては、当時、使われなかった理由も少しは理解することができます。 後に直接、オフトに謝りました。再びオフトがジュビロの監督をやった時に、自分が解説だったので、謝りに行きました。

「お前が使われないのはこういう理由だよ」などとフォローがあると凄くわかりやすかったのですが。

当時の社長やコーチに相談には行きましたが、チームで2番目にゴールを決めているのに、何故ベンチなのかがわかりませんでした。

僕をジュビロへ連れてきた一番信頼のできる山本さんは、サッカー協会にいたのであまり話が出来ませんでした。
  

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――当時のジュビロにはスキラッチとか錚々たるメンバーがいましたよね。   

松原 俊哉(藤田)さんもいて。だけど当時の自分は納得いっていなかったというのが凄くありました。チームで2番目にゴールを決め、アトランタオリンピック予選でも点は取ってきたので、二年目になったら自分が試合に出るのがもっと増えるのかなと思ったら増えなかった。   

点を取っても自分は出られない。別の選手が使われる。ジュビロでのサッカーが楽しくなくなってきたんです。   

いつも監督の目の色を伺いながらプレーするようになってしまいました。そんな息苦しさを感じていた時、ちょうどアトランタオリンピックのあるシーズンに、清水エスパルスから話を頂きました。

 Vol.4へつづく 

インタビューをさせて頂いた松原良香さんの本が発売中です。

【ストライカーを科学する~サッカーは南米に学べ】 https://www.iwanami.co.jp/smp/book/b473160.html  

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