南米・Jリーグ・欧州で戦ってきた松原良香の現在地 Vol.4
Jリーグではジュビロ磐田を皮切りに複数のチームで活躍し、ウルグアイ・クロアチア・スイスでもプレー経験のある松原良香さん。「国内外でどんなキャリアを歩んできたのか?そして現在はどのような活動をされているのか?」じっくり聞かせて頂いた。
菊池 康平
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2020/04/15
Vol.3はこちらから
松原 すごく清水が好きだし、友達もいっぱいいる。何といっても、清水にはサッカー文化があったから、そこでプレーすることは小さい頃からの憧れでもあったんです。
高校時代に東海大一で育ててもらったことも大きく影響し、清水でプレーさせてもらいました。監督はアルディレスでした。
――アルディレスさんはどうでした?
松原 良かったです。僕は監督室をノックして「ジュビロとのダービーマッチに自分を出してくれ」と言いに行ったんです。
――前所属のジュビロが相手ですしね。
松原 でも出してくれませんでした。それも納得しています。アルディレス監督はすごいフェアでした。点を取ったら試合に出す、点を取らないと出さないと。
調子にのっていると「お前はチームのためにプレーしていない、目を覚ませ」「お前はクリンスマンになれる、もっとエゴイストになれ」と言われました。僕はあの時のことはアルディレス監督がどうのではなく、自分が本当に甘かったと思っています。
――「調子にのっていた」というのはどういうことだったのですか?練習に熱が入っていないとかですかね?
松原 「勘違い」ですね。まさにオリンピックの年だったからというのがあります(俗にいうマイアミの奇跡)。エスパルスにいた時にオリンピックに出ました。その時に変な自信がありまして。過信だと思います。
コーナーキックの守備のトレーニングの際、僕の役割としては、ハーフラインあたりの一番前でポジションを取り、味方がマイボールにした瞬間に起点となることと、セカンドボールを拾うことでした。
その際、両手を腰について待っていたのを、スティーブ・ぺリマンというコーチに、「ヘイ、マツバラ!ステップ踏みながらしっかり準備しておけ!」と注意をされました。それを素直に聞けない自分がいました。
言われたアドバイスを素直に受入れ表現していたら、また全く変わっていただろうと思います。素直さ、謙虚さ、人に対して敬意を払うこと、チームへの犠牲心、感謝の心を持てていなかったと思います。
――それだけストライカーとしての自信があったんですね。でも若いころはそういう荒々しい選手は多いですよね。
松原 点を取る選手は特別だから、感覚的に全然違うんです。だからちょっと変わっている人が多いと思います。
点を取るところで人は歓喜するので、そこでアドレナリンがウワァって出ます。そんなプレッシャーの中で点を取るのは、変わっている選手だからこそできるとも思います。
でもどんなに個性があり変わっていても、チームの目標達成の為にゴールを決め続け、チームを勝利に導けるかが大切なんです。 これができる人がイブラヒモビッチ、スアレス、アグエロなんだと思います。
――そのあと、クロアチアリーグに行かれたんでしたっけ?
松原 エスパルス、ジェフと移籍し、ジュビロに戻りました。全てジュビロからのレンタルでした。その後にクロアチアです。
――クロアチアリーグのリエカへ行ったきっかけは何だったのですか?
松原 カズ(三浦知良)さんがクロアチアに行っていて、エージェントが一緒だったからです。当時、クロアチアは強豪でしたし、リエカが優勝争いをしていたこともあります。
ウルグアイにいた時に、ウルグアイ人は活躍すると南米からヨーロッパに行くのを見ていました。僕もいつかヨーロッパでやってみたいと思っていたので「よし、このタイミングだ」と思って、クロアチアで挑戦すると決めました。
――この本でも読んだんですけど、リエカでは活躍して試合にも出て順調だったのに、代理人が「もっと上のオーストリアリーグなどに行こう」と言ってきたりとありましたよね。ずっとリエカにいたら人生変わっていたかもしれないですよね。
松原 そうですね。当時、優勝争いをしていましたから。クロアチア代表にはシューケルとかボバンとか、世界で活躍している選手がいっぱいました。1998年のワールドカップでは3位となり、クロアチアリーグはヨーロッパで注目されていましたからね。
※1999年所属。クロアチアの都市リエカを本拠地とする「フルヴァツキ・ノゴメトニ・クルブ・リエカ(HNKリエカ)」
リエカのホペイロが、クロアチア代表のホペイロだったので、彼にジャージを貰いました。シューケルに貰ったとか言って、僕にくれました。それを父にあげたら、最初の頃は着ていたのですが、その後、犬のマットにされていました(笑)
――えー(笑)
松原 余談でしたが(笑)クロアチア代表もいたし、とにかくすごいメンバーでした。クロアチア代表、クロアチアオリンピック代表、クロアチアのユース代表、他にもハンガリー代表やボスニアヘルツェゴビナ代表など、代表選手がたくさんいました。
――すごいメンバーですね。
松原 そこで監督が気に入ってくれたんです。監督はスペイン語が話せました。スペインでプレーしたこともある元選手だったので。
だから僕とスペイン語で会話をする中で、段々と試合に出してくれるようになりました。初めてのヨーロッパでしたし、生活も楽しかった。すごく良い経験でした。
――松原さんが話せる言語はスペイン語と英語ですか?
松原 あとはポルトガル語とイタリア語も少しですね。スペイン語は、ウルグアイで生活していく中で必要に迫られて覚えました。
英語はゼロでしたが、このクロアチアで覚えました。当時リエカでの生活を助けてくれていたエージェントに「サッカーをやりたいなら英語を覚えろ!英語でコミュニケーションがとれないとダメだ。覚えろ!」と言われて。そのエージェントと毎日英語で話していく中やチームメイトとの会話で覚えました。
Vol.5へつづく
インタビューをさせて頂いた松原良香さんの本が発売中です。
【ストライカーを科学する~サッカーは南米に学べ】
https://www.iwanami.co.jp/smp/book/b473160.html
松原 すごく清水が好きだし、友達もいっぱいいる。何といっても、清水にはサッカー文化があったから、そこでプレーすることは小さい頃からの憧れでもあったんです。
高校時代に東海大一で育ててもらったことも大きく影響し、清水でプレーさせてもらいました。監督はアルディレスでした。
――アルディレスさんはどうでした?
松原 良かったです。僕は監督室をノックして「ジュビロとのダービーマッチに自分を出してくれ」と言いに行ったんです。
――前所属のジュビロが相手ですしね。
松原 でも出してくれませんでした。それも納得しています。アルディレス監督はすごいフェアでした。点を取ったら試合に出す、点を取らないと出さないと。
調子にのっていると「お前はチームのためにプレーしていない、目を覚ませ」「お前はクリンスマンになれる、もっとエゴイストになれ」と言われました。僕はあの時のことはアルディレス監督がどうのではなく、自分が本当に甘かったと思っています。
――「調子にのっていた」というのはどういうことだったのですか?練習に熱が入っていないとかですかね?
松原 「勘違い」ですね。まさにオリンピックの年だったからというのがあります(俗にいうマイアミの奇跡)。エスパルスにいた時にオリンピックに出ました。その時に変な自信がありまして。過信だと思います。
コーナーキックの守備のトレーニングの際、僕の役割としては、ハーフラインあたりの一番前でポジションを取り、味方がマイボールにした瞬間に起点となることと、セカンドボールを拾うことでした。
その際、両手を腰について待っていたのを、スティーブ・ぺリマンというコーチに、「ヘイ、マツバラ!ステップ踏みながらしっかり準備しておけ!」と注意をされました。それを素直に聞けない自分がいました。
言われたアドバイスを素直に受入れ表現していたら、また全く変わっていただろうと思います。素直さ、謙虚さ、人に対して敬意を払うこと、チームへの犠牲心、感謝の心を持てていなかったと思います。
――それだけストライカーとしての自信があったんですね。でも若いころはそういう荒々しい選手は多いですよね。
松原 点を取る選手は特別だから、感覚的に全然違うんです。だからちょっと変わっている人が多いと思います。
点を取るところで人は歓喜するので、そこでアドレナリンがウワァって出ます。そんなプレッシャーの中で点を取るのは、変わっている選手だからこそできるとも思います。
でもどんなに個性があり変わっていても、チームの目標達成の為にゴールを決め続け、チームを勝利に導けるかが大切なんです。 これができる人がイブラヒモビッチ、スアレス、アグエロなんだと思います。
――そのあと、クロアチアリーグに行かれたんでしたっけ?
松原 エスパルス、ジェフと移籍し、ジュビロに戻りました。全てジュビロからのレンタルでした。その後にクロアチアです。
――クロアチアリーグのリエカへ行ったきっかけは何だったのですか?
松原 カズ(三浦知良)さんがクロアチアに行っていて、エージェントが一緒だったからです。当時、クロアチアは強豪でしたし、リエカが優勝争いをしていたこともあります。
ウルグアイにいた時に、ウルグアイ人は活躍すると南米からヨーロッパに行くのを見ていました。僕もいつかヨーロッパでやってみたいと思っていたので「よし、このタイミングだ」と思って、クロアチアで挑戦すると決めました。
――この本でも読んだんですけど、リエカでは活躍して試合にも出て順調だったのに、代理人が「もっと上のオーストリアリーグなどに行こう」と言ってきたりとありましたよね。ずっとリエカにいたら人生変わっていたかもしれないですよね。
松原 そうですね。当時、優勝争いをしていましたから。クロアチア代表にはシューケルとかボバンとか、世界で活躍している選手がいっぱいました。1998年のワールドカップでは3位となり、クロアチアリーグはヨーロッパで注目されていましたからね。
※1999年所属。クロアチアの都市リエカを本拠地とする「フルヴァツキ・ノゴメトニ・クルブ・リエカ(HNKリエカ)」
リエカのホペイロが、クロアチア代表のホペイロだったので、彼にジャージを貰いました。シューケルに貰ったとか言って、僕にくれました。それを父にあげたら、最初の頃は着ていたのですが、その後、犬のマットにされていました(笑)
――えー(笑)
松原 余談でしたが(笑)クロアチア代表もいたし、とにかくすごいメンバーでした。クロアチア代表、クロアチアオリンピック代表、クロアチアのユース代表、他にもハンガリー代表やボスニアヘルツェゴビナ代表など、代表選手がたくさんいました。
――すごいメンバーですね。
松原 そこで監督が気に入ってくれたんです。監督はスペイン語が話せました。スペインでプレーしたこともある元選手だったので。
だから僕とスペイン語で会話をする中で、段々と試合に出してくれるようになりました。初めてのヨーロッパでしたし、生活も楽しかった。すごく良い経験でした。
――松原さんが話せる言語はスペイン語と英語ですか?
松原 あとはポルトガル語とイタリア語も少しですね。スペイン語は、ウルグアイで生活していく中で必要に迫られて覚えました。
英語はゼロでしたが、このクロアチアで覚えました。当時リエカでの生活を助けてくれていたエージェントに「サッカーをやりたいなら英語を覚えろ!英語でコミュニケーションがとれないとダメだ。覚えろ!」と言われて。そのエージェントと毎日英語で話していく中やチームメイトとの会話で覚えました。
Vol.5へつづく
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https://www.iwanami.co.jp/smp/book/b473160.html