南米・Jリーグ・欧州で戦ってきた松原良香の現在地 Vol.6
Jリーグではジュビロ磐田を皮切りに複数のチームで活躍し、ウルグアイ・クロアチア・スイスでもプレー経験のある松原良香さん。「国内外でどんなキャリアを歩んできたのか?そして現在はどのような活動をされているのか?」じっくり聞かせて頂いた。
菊池 康平
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2020/04/29
Vol.5はこちらから
――デレモンのあとはベルマーレですよね?
松原 ゾノから「良香、ベルマーレ来いよ」と連絡がありました。加藤久さんが監督をしていました。
――移籍したベルマーレでは12点とか取られていましたよね。
松原 あの時、チーム内のMVPをもらいました。
――ベルマーレで活躍したのに、ご自身に残る選択肢がなく、その後2回くらいウルグアイに行かれていますよね?
松原 僕の中では、J2では物足りないと思っていました。当時はクラブの財政状況も特に厳しかった。
でも、ゾノにも誘われて、まずここでアピールする、見せるしかないって思い入りました。
そうしたら、クラブから活躍したら給料を倍にすると言われたんです。
活躍していたら、シーズン途中にマリノスとアビスパからオファーを受けました。
城がバリャドリードに行くときだったと思います。でも、残念だったのが、クラブから僕自身にそのオファーのことが知らされず、クラブの外の代理人から知らされました。
絶対にここから這い上がるんだという思いで頑張ってきたため失望する中、チームも勝てず、段々サッカーしていても楽しくなくなってきました。
シーズンが終わった時、当時26歳だったので南米に行くことにしました。
昔のウルグアイ人のエージェントが、ちょうどセルヒオ・バティスタのエージェントをしていて、彼がアルヘンチノス・ジュニアーズの監督をしていたので、そこに行きました。
しかし、練習には参加しましたが、当時、アルゼンチンの経済状況が物凄く悪く、1カ月ですぐに日本に戻ってくることになりました。
その時に、ピッコリ(ネストール・オマール・ピッコリ監督)に誘われてアビスパへ行きました。
そこでいきなりシーズンに入ると、ヒザが痛くなってしまい、初の手術をし、満足な活躍も出来ずにシーズンを棒に振りました。
――それでも、またウルグアイに戻って、学校に通いながらプレーされていたんですよね?
松原 そうです。その時にエージェントから、「あなたはもう年齢が30近くなので、将来のことも考えて指導者のライセンスをウルグアイで取ればよい」と言われました。
昼間はサッカー選手をやりながら、平日は18時30分から21時過ぎまで指導者ライセンスを取得するために大学に通いました。
――その大学ではどんなことを学んだんですか?
松原 スポーツイベントのことやコーチング論などたくさんの事を学びました。
――今に活かされていることはありますか?
松原 会話する事、コミュニケーションをとることの大切さを学びました。突然のストライキにより授業が行われないこともたびたびありました。
彼らが何を目的に、何を考え、どんな環境で勉強しているのかを知り、学ぶことを通して生きる賢さ、知恵といいますか実学を学びました。日本ではあまり感じられないことだと思います。
それが彼らのサッカーにも出ています。サッカーって面白いですよね。国民性やその国の歴史、文化、育った環境がそのまま表れる。
大学に通いながらプレーしたのが、デフェンソール・スポルティングというクラブです。
ウルグアイ代表選手をいっぱい輩出しているクラブです。サッカーだけでなく、バレーボール、陸上などいろいろな競技の選手がいました。
(デフェンソールの練習場にて。犬がまぎれこんでくることもウルグアイでは多かった)
(デフェンソールのクラブハウス内)
しかし、プロサッカー選手として行ったはずなのが、実はその契約がきちんと結ばれておらず、僕にお金が一銭も払われませんでした。
「なかなか試合に出られないな」と段々おかしいなと思い・・・
――聞きに行く。
松原 はい。丁寧に聞きに行きました。専門用語など、大学に入るのにテストを受けたので、丁寧な言葉も含めて勉強していたんです。
ちなみに、授業の中では、書くことよりも話すことの方が凄く多かったんです。その時に初めて家庭教師を週2回お願いして、専門用語なども学んでいました。
フォルランがセレッソ大阪でプレーする前に日本語の勉強をしていましたよね。同じ先生でしたね。
クラブに話したら「もともとあなたはここには練習参加ということで、指導者の勉強として来ているからだ」と聞かされました。
そのままブラジルへ渡り1カ月ぐらいいましたかね。グアラチンゲタの練習に参加していました。
するとボタフォゴに入れそうだという話があり正式オファーを待っていましたが、ボタフォゴの監督が突然解任になったので、日本に帰国することになりました。海外ではよくあることですね。
そこで久さん(加藤久)から誘って頂き、沖縄かりゆしFCに行きました。
――そこからは日本ですよね。引退されてから今(経営者)に至るまで、松原さんはセカンドキャリアでも活躍されているじゃないですか。その要因はなんですか?
松原 やはり、仲間や近くにいる人を大事にすることだと思います。あとは自立することが凄く大事です。
今までは何か感じたことを、何も考えずに浄化もせずただ壁みたいに投げられたボールをポンと跳ね返す、という感じでやっていました。
現在は、投げられたらキャッチする。そして、考える。それから投げ返す。一度立ち止まって考える、人を大事にする、という考えに変わったと思います。
昔から変わらないのは、やると決めたことは、やり抜こうとすることですかね。12チームを渡り歩いてきましたが、基本的に、ここからここまでと言われたことや、自分が言ったことは全うしなければならないと思っています。
僕は納谷さん(当時の静岡FCのGM)に面倒を見ていただき恩があったので、サッカー選手を引退してから、納谷さんの「良香、監督やってみるか」の一言が、ビビッときて、監督をやらせていただきました。
そこでやると決めたら、雨が降ろうが、雪が降ろうが、お金がどんなになくても、決めた以上はやる。やり通しました。
申し訳なかったのは、勝てなかったことです。全国大会に出て、JFLに上がるのが目標でしたが、最後に勝てませんでした。僕に力がなかった。本当に申し訳なかったです。
でもあのやり切った1年間の間に、サッカースクールをスタートするきっかけができ、「俺はできる」という自信となりました。
当時の僕は妻の実家がある千葉県の稲毛海岸に住まわせてもらっていました。朝早く起きて午前中は静岡(藤枝)に行って、午後は東京で夕方からスクールをやりました。
生徒は1人からスタートしました。結婚して子供もいる。ご飯を食べていかないといけない局面に入ったからです。
自分でゼロをイチにすること、這い上がっていくことは本当に好きなんです。つくりあげていくことは、エネルギーもパワーもたくさんいります。
よく、オリンピックに出るためにウルグアイへ行き、引退して、順調に駆け上がってきたかのように思われますが、そうではなく、いろんな経験をしました。
Vol.7へつづく
インタビューをさせて頂いた松原良香さんの本が発売中です。
【ストライカーを科学する~サッカーは南米に学べ!~】
https://www.iwanami.co.jp/smp/book/b473160.html
――デレモンのあとはベルマーレですよね?
松原 ゾノから「良香、ベルマーレ来いよ」と連絡がありました。加藤久さんが監督をしていました。
――移籍したベルマーレでは12点とか取られていましたよね。
松原 あの時、チーム内のMVPをもらいました。
――ベルマーレで活躍したのに、ご自身に残る選択肢がなく、その後2回くらいウルグアイに行かれていますよね?
松原 僕の中では、J2では物足りないと思っていました。当時はクラブの財政状況も特に厳しかった。
でも、ゾノにも誘われて、まずここでアピールする、見せるしかないって思い入りました。
そうしたら、クラブから活躍したら給料を倍にすると言われたんです。
活躍していたら、シーズン途中にマリノスとアビスパからオファーを受けました。
城がバリャドリードに行くときだったと思います。でも、残念だったのが、クラブから僕自身にそのオファーのことが知らされず、クラブの外の代理人から知らされました。
絶対にここから這い上がるんだという思いで頑張ってきたため失望する中、チームも勝てず、段々サッカーしていても楽しくなくなってきました。
シーズンが終わった時、当時26歳だったので南米に行くことにしました。
昔のウルグアイ人のエージェントが、ちょうどセルヒオ・バティスタのエージェントをしていて、彼がアルヘンチノス・ジュニアーズの監督をしていたので、そこに行きました。
しかし、練習には参加しましたが、当時、アルゼンチンの経済状況が物凄く悪く、1カ月ですぐに日本に戻ってくることになりました。
その時に、ピッコリ(ネストール・オマール・ピッコリ監督)に誘われてアビスパへ行きました。
そこでいきなりシーズンに入ると、ヒザが痛くなってしまい、初の手術をし、満足な活躍も出来ずにシーズンを棒に振りました。
――それでも、またウルグアイに戻って、学校に通いながらプレーされていたんですよね?
松原 そうです。その時にエージェントから、「あなたはもう年齢が30近くなので、将来のことも考えて指導者のライセンスをウルグアイで取ればよい」と言われました。
昼間はサッカー選手をやりながら、平日は18時30分から21時過ぎまで指導者ライセンスを取得するために大学に通いました。
――その大学ではどんなことを学んだんですか?
松原 スポーツイベントのことやコーチング論などたくさんの事を学びました。
――今に活かされていることはありますか?
松原 会話する事、コミュニケーションをとることの大切さを学びました。突然のストライキにより授業が行われないこともたびたびありました。
彼らが何を目的に、何を考え、どんな環境で勉強しているのかを知り、学ぶことを通して生きる賢さ、知恵といいますか実学を学びました。日本ではあまり感じられないことだと思います。
それが彼らのサッカーにも出ています。サッカーって面白いですよね。国民性やその国の歴史、文化、育った環境がそのまま表れる。
大学に通いながらプレーしたのが、デフェンソール・スポルティングというクラブです。
ウルグアイ代表選手をいっぱい輩出しているクラブです。サッカーだけでなく、バレーボール、陸上などいろいろな競技の選手がいました。
(デフェンソールの練習場にて。犬がまぎれこんでくることもウルグアイでは多かった)
(デフェンソールのクラブハウス内)
しかし、プロサッカー選手として行ったはずなのが、実はその契約がきちんと結ばれておらず、僕にお金が一銭も払われませんでした。
「なかなか試合に出られないな」と段々おかしいなと思い・・・
――聞きに行く。
松原 はい。丁寧に聞きに行きました。専門用語など、大学に入るのにテストを受けたので、丁寧な言葉も含めて勉強していたんです。
ちなみに、授業の中では、書くことよりも話すことの方が凄く多かったんです。その時に初めて家庭教師を週2回お願いして、専門用語なども学んでいました。
フォルランがセレッソ大阪でプレーする前に日本語の勉強をしていましたよね。同じ先生でしたね。
クラブに話したら「もともとあなたはここには練習参加ということで、指導者の勉強として来ているからだ」と聞かされました。
そのままブラジルへ渡り1カ月ぐらいいましたかね。グアラチンゲタの練習に参加していました。
するとボタフォゴに入れそうだという話があり正式オファーを待っていましたが、ボタフォゴの監督が突然解任になったので、日本に帰国することになりました。海外ではよくあることですね。
そこで久さん(加藤久)から誘って頂き、沖縄かりゆしFCに行きました。
――そこからは日本ですよね。引退されてから今(経営者)に至るまで、松原さんはセカンドキャリアでも活躍されているじゃないですか。その要因はなんですか?
松原 やはり、仲間や近くにいる人を大事にすることだと思います。あとは自立することが凄く大事です。
今までは何か感じたことを、何も考えずに浄化もせずただ壁みたいに投げられたボールをポンと跳ね返す、という感じでやっていました。
現在は、投げられたらキャッチする。そして、考える。それから投げ返す。一度立ち止まって考える、人を大事にする、という考えに変わったと思います。
昔から変わらないのは、やると決めたことは、やり抜こうとすることですかね。12チームを渡り歩いてきましたが、基本的に、ここからここまでと言われたことや、自分が言ったことは全うしなければならないと思っています。
僕は納谷さん(当時の静岡FCのGM)に面倒を見ていただき恩があったので、サッカー選手を引退してから、納谷さんの「良香、監督やってみるか」の一言が、ビビッときて、監督をやらせていただきました。
そこでやると決めたら、雨が降ろうが、雪が降ろうが、お金がどんなになくても、決めた以上はやる。やり通しました。
申し訳なかったのは、勝てなかったことです。全国大会に出て、JFLに上がるのが目標でしたが、最後に勝てませんでした。僕に力がなかった。本当に申し訳なかったです。
でもあのやり切った1年間の間に、サッカースクールをスタートするきっかけができ、「俺はできる」という自信となりました。
当時の僕は妻の実家がある千葉県の稲毛海岸に住まわせてもらっていました。朝早く起きて午前中は静岡(藤枝)に行って、午後は東京で夕方からスクールをやりました。
生徒は1人からスタートしました。結婚して子供もいる。ご飯を食べていかないといけない局面に入ったからです。
自分でゼロをイチにすること、這い上がっていくことは本当に好きなんです。つくりあげていくことは、エネルギーもパワーもたくさんいります。
よく、オリンピックに出るためにウルグアイへ行き、引退して、順調に駆け上がってきたかのように思われますが、そうではなく、いろんな経験をしました。
Vol.7へつづく
インタビューをさせて頂いた松原良香さんの本が発売中です。
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