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西方仁也(リレハンメル五輪銀メダリスト)が、メンバー外の長野五輪で得た誇り 映画「ヒノマルソウル〜舞台裏の英雄たち〜」が今月18日公開! 

1998 年に行われた長野五輪スキージャンプ団体で、日本代表の金メダル獲得を影で支えたテストジャンパーの活躍を描いた映画、「ヒノマルソウル〜舞台裏の英雄たち〜」が、18日から公開される。リレハンメル五輪ジャンプ団体の銀メダルを獲得したものの、長野五輪では代表を逃し、テストジャンパーとして大会に参加することとなった西方仁也さんのエピソードを描いた今作。西方さんに当時の想いや、作品の感想をお伺いした。

Icon fopv vbvqbakadu 白鳥 純一 | 2021/06/18
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©2021映画「ヒノマルソウル」製作委員会 

ヒノマルソウル〜舞台裏の英雄たち〜

出演:田中圭 土屋太鳳 山田裕貴 眞栄田郷敦 小坂菜緒(日向坂46)/濱津隆之/古田新太 他 


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映画「ヒノマルソウル」には、西方さんが初めて飛んだジャンプ台が出てきます。「初めて飛んだ時」の感想を教えてください。
 

西方:ジャンプ部に入ったのは7歳の時でした。まずは5mくらいのジャンプ台で練習してから、徐々に距離を伸ばして小学生が競技を行う20mのジャンプ台を目指すんですけど、初めて飛んだ時は怖くて…。最初の日は、泣きながらジャンプ台を降りてきたような記憶がありますね。

 ――西方さんが、思い描いたジャンプが飛べたのは、いつ頃でしたか? 

西方:中学3年生の時ですかね。当時はパワーを追求するために、陸上とスキーの練習を並行してやっていました。そんなことを続けていたある日、アプローチを滑ってきたときに立ち上がったら、ふわりと身体が浮いたんですよ。この感覚は、なかなか口で表現するのが難しい部分もあるのですが、僕はその感覚を早めに掴んで、忘れずに出来ていたのが良かったのかなと思います。   

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西方さんが中学3年だった1984年には、全国中学ジャンプ選手権で優勝も経験されました。その前年の優勝者は、今回の映画にも登場する原田雅彦さんだったわけですが、原田さんの「第一印象」は覚えていますか? 

西方:原田くんの存在を知ったのは、中学1年の時でした。同級生の原田くんが、中学1年生で全国中学ジャンプ選手権を制覇。翌年も連覇を成し遂げた様子を見て、「凄い奴が居るな」と感じましたね。

その後、原田くんは世界ジュニア選手権に出場。(※
中学2年、西方さんは風邪により欠場)
 原田くんの出場しなかった全国中学ジャンプ選手権(1984年)で優勝したのが、中学3年生の僕でした。その後、高校に進学してからは、一緒に全日本ジュニアの合宿に一緒に参加する機会もあり、交流を深めていきました。 

――原田さんと初めてお話しされた時の印象を教えてください。

西方:面白いキャラクターを持ちながらも、大事な時にはきちんと気持ちを切り替えて、きちんと結果を出すという印象でした。当時から、人並み外れたジャンプを見せていましたよ。

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©2021映画「ヒノマルソウル」製作委員会 

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映画の中には、当時30歳の西方さんが登場します。作中では、「年齢的には、長野五輪が最後の出場になるだろう」と言われるシーンが出てきます。

リレハンメル五輪でジャンプ団体のメンバーだった岡部孝信さん、葛西紀明さん、原田雅彦さんは、長野五輪の後も、長きに渡って現役を続けることになりました。その辺りについては、どのように感じられていますか?
 

西方:そうですね。今では、ベテラン選手の活躍も目立っていますが、僕が若手だった頃は、30歳代中盤まで選手を続けている人は少なかったように思います。

当時の日本は、なかなか結果が出せなくて…。まさにチームとしては「どん底」。国際大会に出ても、「20〜30位がやっとかな」という感じでしたし…。「若手選手を連れていく」と言う方針で起用されたのが、僕や原田くんだったんですよ。

 ――大学を卒業された西方さんは、1990年に雪印に入社。翌1991年にはアルベールビル五輪(フランス)が開かれました。当時の日本代表に対する想いを教えて下さい。

西方:アルベールビル五輪の時には、日本代表候補として、僕の名前も挙げられていたんです。(葛西選手、原田選手、上原子選手、須田選手らが選出)でも、その時は、まだ“世界”が見えていなくて、半ば諦めてしまっていた部分もありました。

 ――“世界”を意識されたのは、どの辺りの時期ですか? 

西方:五輪の翌年(1992年)に行われた国内大会で優勝出来たことが、世界を見据えるきっかけになりましたね。そしてこの頃、まだ19歳だった葛西(紀明)くんが、1992年のスキーフライング選手権(チェコ・ハラホフ)で優勝したことも大きかった。「日本人でも出来るんじゃないのか」と…。夢が目標に変わった瞬間でしたね。 

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西方さんご自身も1992-1993シーズンに世界選手権に出場。1993年2月のファーレン(スウェーデン)では、ノーマルヒルで7位の成績を収められました。

西方:僕は7位でしたが、その大会で優勝したのが原田くんだったんですよ。なので、この時は「世界はそんなにそんな遠いものではないのかな…?」と手応えを感じましたね。 

その年の夏からは、「次の五輪を目指す」と言う気持ちでトレーニングを積むようになりました。みんなの刺激を受けながら、良い方向に進んでいけたと思っています。

――日本代表メンバーに選ばれ、リレハンメル五輪出場が決まった時は、どんな心境でしたか? 

西方:リレハンメル五輪の直前に行われたW杯(札幌)3着になるなど、この年は絶好調で、「必ず五輪に行きたい」と思っていました。なので、1月に出場決定の連絡をいただいたときは、本当にホッとしましたね。

 ――代表選手に選ばれても、試合に出られるのは4選手です。五輪期間中はどのように過ごされていましたか? 

西方:メンバー発表は試合の前日で、本当に気が抜けない状況が続きましたね。「絶対に勝つんだ」という気持ちで練習していました。4年に一度しかない五輪の代表は、やはりW杯とは異なるところもあって、緊張感はありましたよ。 

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©2021映画「ヒノマルソウル」製作委員会 

――ピリピリした空気が立ち込めているのでしょうか?

西方: それぞれ個人の想いはあるのでしょうけども、メンバー選出の話題については、あえて喋らない。決して口にはしませんでしたね。(苦笑) 

でも、オフの時には町に買い物などに出かけたり、夜にはお酒を酌み交わしたり、とにかく良いチームだったと思いますよ。
 

――そのような状況のなか、ノーマルヒルとラージヒルではいずれも8位に入賞されました。

西方: 両方の種目で、同じミスをしてしまったんですよ。1本目は良いジャンプが飛べたのですが、2本目で、少し力が入ってしまって、(ジャンプの)タイミングが早くなってしまったんです。もし、次の長野五輪に出られていたら、改善が出来ていたと思うのですが…。 

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©2021映画「ヒノマルソウル」製作委員会 

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そのような中でジャンプ団体戦を迎えられたわけですが、西方さんは安定したジャンプで、チームに貢献されました。

西方:1本目で理想的な順位につけ、2本目では自分の思い描いた通りのジャンプ。ジャンプは個人競技でもあるので、「ああしたい、こうしたい」と言う気持ちが湧いてくるんですけど、団体戦では、そのような「欲」を抑えて、チームプレーに徹することができました。

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この年の原田さんは、2本目にジャンプで成績を落としている試合が多いのですが…。競技を終え、最終滑走者の原田さんを待つ心境はどのようなものでしたか?

西方: この年の原田くんは、ワールドカップで好成績を収める一方で、2桁順位の時もあるという状況でした。この日は、日本選手がベストジャンプをそろえ、原田くんが普通に飛べば金メダルが取れると思った。 「もし金メダルを逃したら、大変なことになるだろうな…」とか、「少しでも良い風が吹いてほしいな」と思って滑走する原田くんを見ていたら、不安は的中してしまって…。

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帰国後の原田さんは、厳しいバッシングを経験されたようですが?

西方:誰かが足引っ張ると言うこともあるので、事前に「誰かが失敗しても恨まない」と、みんなで約束していたんですよ。だから「2番でもいいじゃん。次の長野で頑張ろうね」と話していたんですけど…。 

今でこそ、「失敗した時どうでした?」と言う質問に答える原田くんの姿を見ると、「慣れたもんだな」と思うんですけど、あの当時は、僕らも声をかけるのが辛い状況でした。

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©2021映画「ヒノマルソウル」製作委員会 

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長野五輪までの4年間を、どのような気持ちで過ごされたのでしょうか? 

西方:「長野向けて、みんなで頑張ろう」と意気込んで、その後も過ごしていました。ルールの変更などもあり、4年の間に不調も経験したのですが、1997年の夏あたりは本当に調子が良かったんですよ。

でも、「いけるかな」と思ったその年の
冬秋に腰を痛めてしまって、結局代表に選ばれることはありませんでした。
 それでも五輪後には国内試合も控えていたので、「トレーニングの代わりにやらないか?」と声をかけていただいて…。テストジャンパーとして五輪に参加することになりました。 

――原田さんの1本目は失敗ジャンプでした。どのような心情で見ていましたか?
 

西方:絶対に金メダルを取れることは分かりきっていたのですが、一方では「飛びすぎて、自分の銀メダルが霞んだら嫌だな」と言う想いもありました。すると、思った以上に失速してしまって…。その時は、「余計なことを言ったかな」と思いましたね(苦笑)。

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©2021映画「ヒノマルソウル」製作委員会 

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その後、吹雪による競技中断。再開には、西方さんをはじめとするテストジャンパーチームの活躍が大きかったと思うのですが? 

西方:競技が中断した時には、「条件が悪かったですけど、何とかしてあげたい」と思ったのは事実ですね。ジャンプ台の表面は凸凹しているんですけど、たくさんの選手が滑り続けた方が音やスピードを掴めて、安心してベストなジャンプが出来る。 

テストジャンパーチームにはさまざまな選手がいましたが、最後は一丸となって取り組めたかなと思います。テストジャンパーチームにはさまざまな選手がいましたが、最後は一丸となって取り組めたかなと思います。 

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©2021映画「ヒノマルソウル」製作委員会 

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競技再開を経て、日本代表は逆転で金メダルを獲得しました。原田さんは、西方さんのアンダーウェアを着て、大ジャンプを見せましたが?

西方: 団体戦の前に、原田くんが「アンダーウェアを貸してくれ」と言ってきたんですよ。「何だろうな?」と思いながら差し出したんですが…。今思うと、気を遣ってくれていたんだろうなと思います。 

望んでいた形とは違いましたが、(地元開催の)長野五輪にも参加ができましたし、無事に金メダルを取った時には、原田くんのおかげでスッキリしたような部分もあって…。長野五輪に関しては、諦めがついたかなと思いますね。

 僕個人としては、憧れていた日本代表に入れて、リレハンメル五輪ではメダルも取れた。長野でも「過去も、これからも続いていくワンシーン」を作れたことを、今では凄く誇りに感じています。 

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©2021映画「ヒノマルソウル」製作委員会 

――長野五輪から23年が経ちますが、今、改めて映画化という形で脚光を浴びることについて、どのように感じられていらっしゃいますか?

西方:五輪の時期になる度に、「いつか映画になる」という話が出ていたのですが、ようやく実現することになりました。これまでは、長野五輪のことを話しても、なかなか分かってもらえない部分もあった。この作品を見た子供達が、試合に出られる人も、出られない人や試合で目立てない人も、みんなで盛り上げている様子を感じて欲しいなと思います。

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©2021映画「ヒノマルソウル」製作委員会 

ヒノマルソウル〜舞台裏の英雄たち〜

 
出演:田中圭 土屋太鳳 山田裕貴 眞栄田郷敦 小坂菜緒(日向坂46)/濱津隆之/古田新太 他